ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ (hatena部)

学校給食を、即時中止とする。学校はデイケアではない。あいさつ運動の無駄。

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誰も言わないことだが、だからといって、このままで良いわけがない。

学校給食は即時中止すべし。税金の無駄遣いも甚だしい。教育上も、好ましくないことが多すぎる。
大量生産で、味わいのない、まずいものを、毎日食べさせて、子どもの味覚がおかしくなってしまった。

コンビニにとっては都合が良いだろう。学校給食で舌が麻痺しているものだから、大人になっても、コンビニ弁当をまずいと感じなくなる。
学校給食とコンビニとは、裏で手を結んでいるのか、と疑う。

あなたは、母親だろう(または父親だろう)。せめて我が子の昼飯ぐらい作ってやれ。我が子に、三度の飯を食わせるのは、親として最低限の義務ではないのか。

学校給食の弊害は、それだけでも何時間もの話題になる。
たとえば、給食調理員への給与を考えたことがあるか。夏冬春の学校休業中にも、一度も給食がないにもかかわらず、給与はちゃんと払われている。

学校給食は、子どもの残滓に目くじらたてる。あまり残すと、具合が悪い。
そこで、「残さず全部食べなさい」と、口癖のように言うが、あれは体罰ではないのか。
暑い日に、油だらけの料理で、食後、気分の悪くなる子もいる。
何よりも食中毒を恐れるから、野菜でもなんでもかんでも油だらけである。
カロリーは十分だと言うが、当たり前だ。肥満の子が、ほれ、これほど増えてきた。

学校はデイケア・サービスではない。救護施設でもない。

学校が、昼飯を子どもに食べさせるという余計なお世話をしたばっかりに(戦後のどさくさには、その必要もあった)、学校の性格が変わってしまった。学問、文化伝統をたたき込む場所であったはずなのに、「みんないっしょに、なんでも面倒みます」というお子様ランチになってしまったのだ。

今からでも遅くはない。学校給食を廃止せよ。
廃止は、財政上の理由から、とかなんとか、選挙民への説明は、考えろ。議員なら、お得意だろう。

だらしのない親は、学校給食大賛成だろうが、そんなことだから、子供も親も、あんな始末になる。

昼飯は、各家庭の領分である。今時、飢え死にする子はいない。
もしもいたら、行政が、待ってましたとばかりに、助けてやるがいい。

あれもこれも、学校のお節介である。または親への甘やかし、または能無し議員どもの票稼ぎの手管である。


ところで、ついでに言えば、多くの小学校で、「あいさつ運動」なるものをする。

子どもが元気よく挨拶するのか、と思っていると、そうではない。教員や親がする。

登校途中の児童に向かって、教員や親が深々と頭を下げて「おはようございまーす」だって。
話が逆だろう。

子供も、少しは気が咎めるのか、反射的に「おはよう」なんて小声であらぬ方向を向いてつぶやく。

その子が中学生になったら、小声どころか、知らんぷりである。中には唾を吐きかける子供もいる。

学校教育とはかくの如し。
基本の躾や常識は、家庭でするものだ。
家庭のかわりに、学校が躾をしろというのか。冗談じゃあない。
コンビニの前で、へらへらとたむろしている、ご立派な息子や娘は、あなたの子供だろう。法的にも生理的にも(たぶん)実の子なんだろう。
だったら、あなたが責任を持って、躾けてやれ。

学校給食だの登校指導だのあいさつ運動だの、およそ非常識なことを公立学校に、当然のようにさせているから、親子が同時に、つけあがるのである。学校は、学校の敷地内、校舎内が、守備範囲である。それ以上でも以下でもない。
一歩、学校を出れば、今、流行の「自己責任」である。子供も親も教員も、一瞬にして他人となる。

実際は、そうはいかない。
日本人は同胞である、赤子である、神の子である。天孫降臨である。とまではいくら何でも言わないが、一度でも縁あれば、何かと面倒を見てやるのが人情である。いつまでも、どこでも、べたべたする。それが悪いとは言わない。日本人は、やはり、心根が、甘たれの兄弟である。

だからこそ、互いの距離感をもつことと、学校の守備範囲を教員が守ることとが、大切なのである。