ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ (hatena部)

授業を妨害する子供と自信のない教員。楽しい授業、って素敵だよね。

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学級内で、授業を妨害する生徒がいる。
授業を妨害する生徒は、ほんの一部の生徒である。しかし、その悪質な数パーセントの生徒が、学級の雰囲気を決めてしまうことが多い。

どんな学級であろうとも、効率的な教育活動が行われていないとしたら、責任は教員にある。
しかし、教員に責任があるからといって、学級の問題が解決するわけではない。

分かりやすい解決策は、問題行動をとる生徒に対して、他の生徒の親が、注意や叱責を行なうことである。
当該生徒は、他の多くの生徒の学習権を踏みにじり、安全であるべき学校生活を侵害している。
しかし、犯罪的な行動をとっても、その生徒や親に対して、公教育の教員や行政は、無力である。公立学校は、住民サービスの一環であるとされているから、住民の反感を買うような発言や行動は慎むべきことである。関係者は極めて神経過敏にならざるをえない。

特定生徒への個人的指導は、一歩間違うと、面倒を抱えることになる。できるだけそっとしておく、という状況になりがちだ。
こんな事情を、子供も親も先刻ご承知であるから、ますます増長し、学級内でやりたい放題である。教員が注意をしようものなら唾を吐きかけ、馬鹿にする。胸ぐらつかんで引きずり回す。これが中学生、または小学生の現実だ。    

実際のところ、何か言えるのは、同じ学級の同級生の親しかいない。その親が、直接に、当該生徒と親に対して、圧力を加えなければ状況は変化しない。 いわば憎まれ役を買って出る気持ちがないと、うまくいかない。
地域の教育力とは、何も、語学ボランティアや趣味を生かしたお手伝いばかりではない。子どもの健全な成長のために、他人の子どもの悪を見て見ぬふりをせずに、行動に移すことも必要だろう。

とはいえ、教員は職責がある。給金分の仕事をしなければならないはずだ。
学習態度が滅茶苦茶な児童生徒に対して、教員は、どうすればいいのだろうか。

唐突だが、知性的な授業をすることである。
知性的な授業ならば、子供もそれなりに伸びる。
中学校では、学級担任の影響が学級の生徒全体に及びにくい。A教員の授業ではまともでも、B教員の時はそうではない、ということがよくある。生徒が相手を選んで態度を変えるのである。
だが、教員が誰であっても、授業が知性を高めるものならば、落ち着いた学級は可能なのだ。なぜそうなるのか、と問われても困る。どんな子供にも生来の知的欲求がある、と答えるしかない。
多くの中学校の授業は荒れている。小学校や高校でも、同様の傾向にある。
原因の一端は、教員の力不足にある。授業が知性的ではないのだ。

なぜだろうか。
難関の採用試験をパスして、ようやく現場に就職できた、いわば「力ある」人たちではなかったろうか。

問題は、次の点にある。

一、教科に対する全般的見通しがない。
二、学問への意欲的な迫力がない。
三、つまりは教育哲学がない。
四、日本文化への自信と誇りがない、というより興味がない。そのため、先祖への畏敬の念がなく、命の継続感が薄い。次の日本人の大人になるべき子供に対して、大人として自信を持って処することができない。

特に四番は大切だ。社会主義びいきの左翼的団体の活動教員などは、もっての他である。同和教育も利権が消失した今、流行らないから盾にできない。

私立の、かろうじて規律らしきものが残っている学校は、月謝や退学の脅しもあるが、キリスト教という宗教的バックボーンがじわりと効いているのである。

結局は、私たちは日本人である。日本人が、日本の伝統文化の持続と拡大への意欲と気概がなければ、教育活動に迫力が出るわけがない。


ついでに言えば、施設や定員の問題もある。
小学校で一学級の人数が、40人を越えても、落ち着いて静かに学習できる学級もあれば、たとえ26人でも騒がしく落ち着きのない学級もある。
しかし、学級の児童数が20人以下になると、極端に騒がしい学級はなくなる。
それでも落ち着いていないとしたら、子供か親か教員のいずれかに、問題がある場合で、それはここでは論じない。

静かな学習時間は、大切である。喧噪の教室では、知的鍛錬ができない。
住んでいる場所というのは、想像以上に子どもにも大人にも影響する。住環境が良ければ、子どもも落ち着く。
それは学校にも当然言えることで、環境の良い場所に清潔な校舎でゆったりとした敷地なら、申し分ない。その逆は、悲惨なことになる。

住んでいる場所が違い、校舎が違い、周りの環境が違えば、同じ教育ができるわけない。子どものレベルも同じわけがない。日当たりや水はけの良いところは、花木だってどんどん伸びるだろう。その逆も想像できるだろう。

しかし、建前上、平等に扱っていることになっているから、学校や子供の住環境について云々することは、ほとんどない。見て見ぬ振りがわが身のためである。
こんなところにも、みんな同じ、みんな一緒の、悪しき発想が出ている。

一時期、流行った「楽しい授業」もそうで、笑い声が起こらなければ、良い授業ではないかのような空気があった。
不思議なことである。
中学校や高校では、まして大学では、「楽しい授業」なんて言わないのに、どういうわけか、小学校では、楽しく分かる授業、などという。

授業が楽しいわけがない。子どもに問うてみるがいい。健全な子どもほど、授業は「楽しいものではない」と、笑いながら答えるだろう。
授業が、「楽しい」ようでは、困る。

テレビゲームをするような、漫画や、お笑い芸人を見るような、そんな授業であっては、断じていけないのである。

いい年をした大人なら、少し考えればわかるはずだ。
授業は、日本の学問伝統、人類の知的遺産を後進に伝授することである。いくばくかの厳しさがなければならない。
目的をもって学んだ経験のある人は、誰でも知っているだろう。忍耐や意欲の役目は、そこにある。

犬や馬ではあるまいに、子どもに媚びてへつらって、勉強していただくことが、授業ではない。
子供たちに苦労して学ばせろ、遊びと学びとの間に大きな溝があるべきだ、と古人は言った。
けだし、至言である。

勉強方法は、昔から、一つしかない。忍耐と繰り返しである。
長い年月を辛抱強く途切れることなく勉強しろ、それ以外に方法はない、というほどのことを宣長が言っている『うひ山踏み』。
学校教育には、教科書があり、教員がいて、一応は雨風をしのげる場所(学校)がある。

何にでも打算や商売が入る。目新しい物は常に新鮮である。だから教具教材やプリントの類が山ほどあふれている。
しかし、勉強は、教科書で十分である。
教科書、黒板、ノートに、その他に何が必要だろうか。
優れた授業があればいい。
当たりの教員に巡り会えないからといって、機械(PC)では駄目である。
その意味でも、世の中は不公平である。