ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ (hatena部)

国立大付属学校の「お受験は」良いことづくめ。勉強してもしなくても。

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筑波大学付属小学校は、東京大学が本当の意味での名門かどうかはともかく、国立付属小の東大といわれるほどの「名門」なんだそうである。

地下鉄茗荷谷駅の近くにある学校で、年に数回の研究発表会を開く。全国から熱心な先生方が集まって、授業を「参観」する。
児童の方も、6年生なら、12回以上も研究会の場数を踏んでいる。
みんなお利口さんで、どんな授業でも、うまく理解して、発言も要領がいい。手慣れたものである。
あれは、地方の公立小学校の手本にはならない。

授業前に数人の6年生児童と話した。察するところ、家庭は裕福なようだ。お受験のために幼稚園から塾に通って、入学後も、大手の学習塾に通い続けている。そんな子供が多いようだ。
学校の授業を、軽くこなすのは、当然である。

さて、本題はこれからである。
今回の研究会でも、例によって総合学習をめぐって、盛んに論議されたが、労多くして益少なしの感はぬぐえなかった。
二日目の午後には、会場にあふれんばかりの教員達と研究発表者、文科省担当者とで、総合学習を巡って熱心に討議があった。

参加教員たちは、散会後、会場から地下鉄駅に向かってとぼとぼと歩く。誰の心にも、総合学習の無意味さと虚しさと、何か間違っている、総合学習はもう駄目だ、と観念がわいたはずである。
その中で、ただ一人気付かなかったのは(または、立場上気付かぬふりをした)、文科省の人間だけだったのかもしれない。
理念のみの空論を、さも意味ありげに話していたように見えた。論理の苦しさが、言葉の端々に出ていた。
所詮、間違いを間違いと認めずに、押し通そうとするのだから、無理がある。

日本全国の現場の教員のほとんどは「総合的学習は内容空疎」と気付いている。観念で気付いたのではない。実践によって、確信させられたのである。
もはや、総合的学習は終わっている。次の指導要領改訂では消えてなくなるだろう。そうならなければ、日本の教育は崩壊するだろう。

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以上を書いて、かなりの年数がたった。

予想通り、さすがに、現在では、文科省担当者の面子をつぶさない程度に、暫時、時間数を減らしている。

そりゃそうだろう。

しかし、文科省の担当者のレベルの低さには、毎度ながら辟易する。
教員が迷惑なだけではない。親と子供が迷惑をこうむるのだ。

ところで、付属小といえば、親が熱心にならなければ、そもそも入学できない。付属中高から入っても、それなりだろうが、早くから放り込みたいのも親心である。

こんな親は、子供に勉強を表と裏とで、強制する。勉強しろ。勉強してくれ。勉強していただけませんか。
親が、ついには教員までもが、子供にお願いする。

銀行や保険業の勧誘パンフレットは、学費がどうの、予備校、学習塾、習い事、都会での下宿、莫大な金がかかること等、親の不安をあおって、貯金しろと、言い寄ってくる。
まあ、ちょっと待て。
そうまでして、勉強が好きではない、勉強をしない子供に、勉強をしていただく必要があるのか。

義務教育が終わったら、最悪でも高校を終えたら、親は子供を突き放したらどうか。

といっても無理だろう。

親は子供を、猫可愛がりする。これが日本の伝統である。そうまでして何になる、と言いたいところだが、何にもならなくても、そうまでするのが親心である。

「高校を卒業したら、後は本人次第です」、と力説する父親の子供を見れば、それなりの成績で旧帝大系大学を出て、今は東大院に在学中である。それで言う戯言である。

親は我が子に、なんとかして勉強してほしい、勉強させねば、と焦る。
しかし、勉強がよくできる子供もいれば、できない坊主もいて、それで世間は、丸く収まる。
できる限りの高度の教育を受けさせようとするのは、親の傲慢または、親の自己陶酔ではないのか。
鳶は鷹を生まないはずなのだが、鳶が自らを鷹だと信じ込んでいる場合は、どうしようもない。

すべてこの世は本人次第である。法を破らぬ限り、子供の好きに任せればいい。どうせその結果は、子供本人が背負うのである。

進学にも、どうやら向き不向きがある。
勉強する、学習する、学ぶ、どう言ってもよいが、学問の基本は読み書き算盤である。
これらは、古人も言うよう倦まず怠らず弛まず、続けて学習し続けることが大切なのだが、好きでなければ難しいのではないか。

近ごろの子供は、答えはすぐ出るものだと考えている節がある。
簡単に手の届く知識にしか興味を感じないらしい。
昔の子供も、答えを早く出そうという気持ちは同じだった。しかし、ある種のことには長い時間がかかることを体験上知っていた。

今の子供は、すぐに答えが出るレベルには、反応だけは速くなったが、考え続けなければ解決できないものは、遠ざけて、難問を避けようとする。
考えるための静寂に耐えることが、苦手なようである。

例えば、「演算」まがいの問題形式がある。一時期、流行ったもので、問題文の中に数式の約束があって、約束通りに解くのである。基礎的な読解力と計算力とがあれば簡単に解けるのに、意外にも苦手とする子が多い。
授業で習ったパターン以外の問題は極端に正答率が悪くなる。これは以前にはなかったことだ。

玩具は分解したいという気がおこるものだが、ファミコン、PC、スマートフォンにはその気はおこらない。分解したって何がなんだかわからないことを、すでに子供自身が気づいている。

演算問題も同じことだ、とは言わないが、似ていることは事実だろう。
簡単に結果が出る問題以外は難問だということになるらしい。少しの手間ですぐわかることなのに、待つことができない。答えをすぐに見つけたがる。

新しい課題が出たときに、その問題の基本の考え方を身につけていれば、原則から考えてどんな応用もできるはずである。そう考えると、受験競争も案外に大したことではないかもしれない。

近ごろは、高校生は灰色の青春を送っている、という人は少ない。あれしきの勉強で灰色ならば、フランスの高校生は真っ黒を通り越している。

少しばかりの勉強をしているのは、日本人の子供ばかりではない。
日本の子供はよく勉強する、勉強しすぎだ、という意見が、昔はあったが、今はない。

日本のような天然資源の少ない国では、豊富な資源は「人材」だけである。技術立国であることは、万人承知のことである。そんな国で、子供が勉強しなくなったらどうする。

勉強、勉強、勉強でよいのである。どうせそんなには、しやしない。
十代が机にかじりついているばかりではない。だとしたら、病気である。
大人が先取りして、勉強し過ぎだ、遊びが少なすぎるなどといっていると、子供が本気にする恐れがある。
ピアノは忍耐強い運指訓練が必要だ。学習も同じことである。

大体、勉強なんて、最初は強制されても、だんだんと自分からするようになるものである。
人は、生まれたときから、何かを見たり、知ったりすることに、喜びを感じる傾向がある。
赤ん坊を見れば、まわりからすべてを吸収しようとしているのがわかるだろう。
知識を獲得することが、生まれ付いての楽しみであるなら、学習は喜びである。そのまま、人間の幸福につながることになる。

学問は、幸福な人生とは何かという営みである。学ぶことが、幸福を追いかけると同時に、幸福を日々達成していることになるかもしれない。
知識を得ようとするのは、何かを知る、発見する楽しみだからだろう。
日々新た、と言う。学び続けるならば、そうなるはずである。

しかし、裕福な生活への片道切符としての面もある。
受験勉強は、ある一定期間、ある範囲の「学問」をすることで、科目の問題解決能力を得て、競争試験に勝ち抜く力をつけることである。

競争試験は悪い風習ではない。切羽詰まった目的がないと、人間は勉強しない傾向にある。ある学校に入るために、集中して勉強する経験は、なかなかに善いものだといえるだろう。

なぜ、入学試験に受かりたいかといえば、その学校に入りたいからである。
なぜ、その学校かといえば、校風が好きだとか、尊敬する先生がいるとか、就職に有利だとか、卒業生に政界や経済界の実力者がいるから、とか様々であろう。
司法試験や、外交官試験の合格者が多い大学、医者になるために学部を選んだ、などであろう。それらは、なんとなく裕福のイメージがある。高い収益とステータスの職業と直結する学部や大学は、幸福への近道のような気がしてくる。
これは、常識人の考え方である。素直な気持ちである。否定できない。その上で、学問そのものの楽しみを味わえばよい。

というのも、猛烈な受験勉強の結果、首尾よく目的の学校に入ったものの、勉強をだんだんしなくなり、はなはだしい場合は、ノイローゼになったり、学業不振になったりで、転落する例が多くあるからである。

しかしながら、極端な例を出して、それがほとんどであるかのような言い方は公平とはいえないだろう。多くの場合は、順調に進級するのである。そうでなければ、あれほどに、みながみな、受験勉強に熱心になるわけがない。

どうやら受験勉強もまんざら悪くないどころか、むしろ奨励すべきもののようである。
勉強は、すればするほど、それなりのご褒美を受け取ることが多い、という、単純だが実例の多い結論になった。