ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

幸せは、遅くまで職場に残ること。人間関係が不幸の始まり。能力並みの仕事をすること。

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職場の人間関係が、すべての不幸の始まりである。

人間関係が、物事を難しくするのは、家庭や企業だけではない。
学校は、人間相手の仕事の典型の一つだが、問題が起こりがちなのは、教員と児童生徒学生との間にではない。その親なんかでは、もちろんない。
教員同士の問題である。同僚間や、校長等との指示の齟齬や虫の居所による。
幸福な学校の教員は、おしなべて幸福であるが、不幸な学校の教員は、それぞれに不幸である。

こう書いただけではピンとこないだろう。分かる人には、即座に理解できるだろう。それが不幸なことであるくらいは、理解できた本人が知っているだろう。


さて、公立学校は、親方日の丸だから、一応は安泰である。些細な瑕疵を指摘されても、一応、なんとかなる。
しかし二流以下の私立学校は、経営が順調なところはいいが、そうでない場合は、困ったことになる。

端的に表れるのは、受験者の減少、入学定員割れである。苦しんで、どんなできない子でも、入学可能にしてやってすら、それでも生徒が数に満たない。

理事会も真っ青だが、それは結局、能天気な教職員も気づく、知る。何を知るかと言えば、もうこの学校には将来はないな、ということである。

学校凋落の原因は、理事会の見通しの甘さ、校長の無能、教員のレベルの低さに原因があるのだが、そんなこと、当人たちは知っちゃあいない。
すべて自分以外の他人のせいにする。不幸の始まりであり、連鎖である。


日本の教員は、世界一、真面目なので、汗水たらせば、それで大丈夫だと勘違いする。
しかし、相変わらずばたばたとしても、効果が上がってない。
この状況を変えるには、教員が、自分の能力の限界を見つけて、仕事の範囲内は確実にクリアできるという実績と自信とを持つべきである。
でなければ、常に不安で、毎日に余裕がなく、自らを疲弊させるだけである。子どもにも、よい影響を及ぼさない。

自信のない教員は、細々した教員根性どっぷりの教員である。いらいらと余裕がなく、時間の使い方が下手で、体力と気力の限界近くまで動き回って、ようやく自らが安心する。 
一生懸命にやっているというポーズを、自分の能力不足の免罪符として、ただ、忙しく疲れ果てる。そうして満足する。

それでは困る。だから、ほとんどの教員を、いますぐ交換せよ、とは言わない。そんなこと、できるわけがない。

「決められた範囲内を確実にこなして、それ以外は関知せず」の意識を強く持たせなければ解決しない。
「できるだけのことをやらせていただきます」では、それはボランティアごっこである。素人である。
「おもてなし」である。東京五輪音頭である。国会議員である。都会議員である。能無しである。

ボランティアは、どこか甘えが出る。

こんなに時間をかけたのだから、これほど気にかけているのだから、ああしたから、こうしたから、と泣きべそかきながらの逃げ口上である。

一生懸命やってくれなくてもいい。
一流の執刀医が、普通どおりやって手術を成功させるほうが、藪医者が懸命にやって患者を死なすよりは、よほどいいわけである。

教員は、医者とは違うと言うのか。
違うものか。

違いは出身学部と収入だけである。
両者とも、人間を相手にして、その人間の将来にかかわる仕事である。
だから、医者に、名医と藪とがいるように、子供に力をつける教員とそうでない教員とがいるのである。その区別をはっきりさせなければ、ピンもキリも一緒にされる。みんな同じに扱われて、挙句、馬鹿にされて、さげすまれ、こき使われるようになる。

教員の能力差は厳然とある。学校間の学力差、子供個々の能力差も、明確にある。
何事も差異があるからこそ、幸福である。みんな同じなら、この世の地獄である。社会体制として、その分かりやすい例を、われわれはソ連やチャイナに見たはずである。しかもその同じは、権力者抜きである。

差異、区別、選択、能力別、競争試験。これが、治まる御代である。
きれいごとを並べ立てて、評価の基準にするのではなく、実際に児童生徒学生に力をつけることができたかどうかが、教員の能力の判断基準にすべきである。

さて、ご存知のように、各学校には独特の雰囲気があって、澱のように沈殿して容易には抜けない。
しかも悪いことに、それは数人の職員で決まってしまう。

同僚が難しい問題を抱えているとしよう。その問題を受け止めて、相手の気持ちに寄り添って聞いてやれば、あら不思議、同僚の悩みはほとんど解決するものである。

相手の望むような返答をしてやると、場合にもよるが、効果は倍増する。
相手の言動を否定すると、極めてまずいことになる。
しかし、今後このような人間関係でいいものかどうか。情緒だけが優先して、変なことになっているのではないか。

会社の同僚同士でも、微妙なのに、教員の場合、学級の子どもや、その保護者に対して、特別な関係が成り立っているので、いっそう相手に寄り添う言動が要求される。それをうっかり破ると、村八分になる。

そんなことにならないように、あらかじめ、仲間内でこっそりと口裏を合わせる。
学校では、学年の担任同士が、学習進度を歩調を合わせることは不文律である。しかし、困ったことに、教員の能力には、違いがある。

子供は今のところ、担任を選べない。担任もまた、児童生徒学生を選べない。これは不幸なことである。
子供も教員も、毎年能力考査を受けさせて、段階別に学級編成したらいい。
教員もまた、その能力・適性により、担当する学級を選ばせればいい。
親も不満があれば、その学級から離れるだろう。
互いが、選び選ばれる関係が望ましい。

情緒が優先して、優れた、または劣った能力を隠して、みんな一緒の仲良し集団では、日本の教育は、ますます闇である。

教員も個別に動くべきである。定見のない管理職や能力の劣った教員に遠慮して、「教職員全体で取り組も」うなんて、都合が良すぎる設定である。

時間があるとかえって仕事が遅い。
時間数の確保とかで、授業時間の計算をやかましくするようになったが、失敗した。国語が1時間足りない、社会が2時間多いだのと、瑣末にこだわる。
銀行の支店が、当日の収支を合わせているとは違う。

実際のところ、プロの教員は時間なんて関係がない。
10の内容を3時間で教えることができる教員もいれば、10時間かけても、内容の3割すら教えることができない教員もいる。

時間数は書類上の表向きでいい。そのほうが、適材適所で実力を出すだろう。時間にばかりこだわると哀れなことになる。
能力ある教員の足をひっぱり、力不足の教員にも無理をさせることになる。いいことはひとつもない。
もっとも、これがねらいなのかもしれないが。

「みんないっしょ」が大好きのお国柄故、レベルを最低限に設定して、みんなでいっしょに、没落しようとするのだろう。
隣村で殺人事件が一つあったなら、その県の全員が犯人だと、決め付けるようなものである。
学校はボルトとナットの製造工場ではない。時間をかければよいというものではない。いやいや、製造も時間が優先するとは限らない。

教員はだらだらと,学校に残るばかりが能ではない。
いつまでも学校に残っている教員は、熱心なのではない、能力不足なだけである。または帰るべき行くべき場所を持たないのだろう。

残るのは、仕事が遅いからである。または、他にすることも、行くところも見つけることができないからである。世間の目を気にして、世間様より遅い時間に帰りたいのか。

そのようなポーズを示したほうが保身に有利だからであろう。

子どもに全力で学問を教える。それが終わったら、既定の就業時間が過ぎれば、さっさと帰ればよい。
学校の電気を無駄に使ってはならない。
人間関係に救いを求めるしかないのである。