ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ (hatena部)

国語教科書は汚物の塊。生存する売文屋の文章なんか、載せるな。

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近頃バスに乗ることが多い。沿線に大学がいくつもあるので、学生が乗り込んでくる。他の客への迷惑など、お構いなしに、学生同士で大声で馬鹿話をする。
それは勝手だが、その言葉遣いが聞くに耐えない。
内容が幼稚で破廉恥なことは大目に見るにしても、話し方は、なんとかならないものか。

品ある言葉遣いは、幼児でも、できる子にはできる。
まして母国語が一応確立する10歳前後には、美しい言葉遣い、発音、発声、抑揚は、わきまえていて当然である。
それができていないのは、なぜなのか。 

どうせ二流大学の学生だ、と思ってもらっても困る。そう馬鹿にしたものではない。簡単には入れない(らしい)。
そうすると、言語環境というか、国語教育というか、何かの問題があるに違いない。

原因は、近年の腐った国語教科書にあると考えるが、多くの人はそうは思っていないようだ。
教科書はきちんとしたものだろう、ぐらいに信じている。

では、小中学校の国語教科書を、試みに、どこの会社のでもいいから、見てごらん。
あれが、小中学生に学ばせるべき文章かどうか、静かに考えてごらん。
私の言わんとすることが、ご理解いただけるだろう。


近年の国語教科書は、編集委員と称するボスと、その取り巻きと、利益優先の教科書会社の営業とが、結託して、でっち上げた代物である。 
昔、永井荷風は、貴殿の文章を教科書に載せたい、と打診されると、自分ごときの文章を教科書になんてとんでもない、と断ったという。
今の自称、作家というか物書きというか売文屋というか、その連中は、どうやら、荷風先生以上の逸材と見える。

この際だから言っておこう。
教科書は、即刻、一般会社への委託自由とし、各学校が制限なくそこから選択できるようにせよ。
中には、まともな感覚で、名文を選び、内容のある教科書を遠慮なく作る出版元もあるだろう。
なければ、今時のことである。優秀な教員の何人かに任せてみるがいい。パソコンとプリンタとで、瞬く間に、本物の「教科書」を作り上げることだろう。


教科書、特に国語や社会の教科書がお粗末至極であることについて、もう少し話す。

国語教科書に、小中高等学校と、ろくなものがない。大学の自称「教科書」は論ずるに及ばない。あれは資源の無駄である。

さて、どう粗末なのかと言えば、簡単である。あなたが、読んでみれば良い。
駄文の数々が、はたして、強制的に子供たちに読ませるべきものかどうか。
同時代の売文屋稼業たちの文章を、読ませていいものかどうか。

教科書には、すべからく、歴史的に評価の定まった名文をのみ、掲載すべきである。そうしないのは、日教組の教員におもねったり、何某を流行作家にしたてて儲けようとする、出版社の罠である。

現代文は、すでに鴎外、漱石荷風、潤一郎、直哉、敦、由紀夫以下、そうそうたる作品があふれている。すべて物故者である。作品のみで判断できる。そういうもので教科書を編むのが筋で、今生きている売文屋やタレント大学教員の駄文を載せて、いったいどうするつもりだろう。勉強の邪魔になるどころか、害である。汚らわしい。

いわゆる古文も、江戸文学から平安に至るまで、優れた文章が山ほどある。それすら載せないで、何が「国語教科書」だ。
馬鹿馬鹿しくて怒る気にもなれない。
あんなものはすぐさま破り捨てて唾棄すべきものだが、それはそれ、大勢には逆らえない。

教科書は瞬時にすませ、名文集を編んで生徒に配って、それで学ばせた知人がいる。おかげで、生徒たちの成績は抜群で、進学も群を抜いていた。
すべては、何を学ぶか、で決まるのだ。

ついでに言えば、大学入試の国語問題は、クズがくずを出している。
最初から意味不明の悪文を選びに選んでいるので、現代国語の問題は難解だと言うのが、定説になっている。
何が難しいものか。

愚かな出題者の能力と意図とを見抜いて、彼らの想定する模範解答に近いものを、半開きの口の中に、放り投げてやればいいのである。

生徒にはこう話した。
諸君の方が、出題者よりも能力は圧倒的に上である。従って、諸君の答えは常に正しいが、正しい答えを書いても、出題者は自分の能力を越えたものを、間違いとするだろう。だから、出題者の意図及びレベルを見抜いて、相手に合わせて書いてやれ。


まだ言おうか。

日本の教育は、なかなか風変わりである。
これほど教科書が駄目な国はないのではなかろうか。

どう駄目かと言えば、すべてが駄目なのである。嘘だと思うなら、教科書を扱っている本屋で、片端から見るといい。

特にひどいのは、小学校国語科と社会科である。理科算数音楽図工、これらは、もともと教科書なんて、あてにしていないから、今はおく。
中学高校で使っている教科書のお粗末さは、長くなるので、これも言わない。

では、国語教科書を覗いてみよう。
国語の伝統を無視し、日本人の歴史を無視し、根無し草で、日本人を日本人でなくなるように、近隣諸国の下に置こうという怪しい情熱が、露骨に示されている。
意図的に仕組まないと、これだけお粗末で悲惨な教科書はできるものではない。

国語の教科書ならば、そこに載せている文章が、そのまま教科書の価値であるのに、この世のものとも思えないほどひどい文章を平気で載せる。というより、羅列する。
音読みさせてごらん、こどもはつっかえつっかえ苦しそうに読むだろう。

たとえば、中島敦志賀直哉荷風森鴎外のいくつかの文章を読ませてごらん。子どもは、きちんと心地よくリズムに乗って音読するだろう。

内容もなく、文章の力がなく、リズムがなく、いい加減で、何人かででっち上げた汚物。多少でもあるべき思想の片鱗すらなく、あるとすれば下品なステレオタイプのつぶやきの類である。もうこれは子供を拷問しているようなものでる。

どうしてこうなったのか、いつ頃から、国語教科書としての最低限の形すら、保つことができなくなったのか。
これは有意義な研究テーマだと思うが、だれかやってみないか。