ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

子供は、教員の奴隷である。入学以来、周りを見て育つ小学生。

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子供たちは、小学校に入学すると、さっそく担任から、ああしなさいこうしなさいと、命令される。
それは、仕方のないことである。
子供たちは、個性の塊と言うよりは、我がまま勝手な暴君の集まりである。担任は一人で、手強い彼らを相手にしなければならない。
仕事がしやすいように、あの手この手を考える。命令口調になるのも、当然である。

しかし、所詮、子供は子供である。学校は一種の監獄で、大人である教員は、強い看守である。
子供たちは、すぐに看守の言うがままになる。びくびくおどどと、教員のご機嫌をうかがうようになる。

しかし、これも言い過ぎだろう。
子供も親も、昔のように教員を支持していない、恐い存在でもない。逆に教員が、児童生徒とその保護者とを恐れるようになった。看守の力は弱まったのである。

弱まったにせよ、学校は、社会から認められた大きな組織である。そこから逃れる術は、子供にはない。不登校か病気か、またはもっと重篤な状態になるしかない。
それが嫌なら、学校に合わせて、なんとか小中学校だけでも乗り切ろうとする。
これがそもそも、不幸の始まりで、世界でも奇怪な「日本人の美徳」を醸成した。

おもてなしである。気配りである。空気を読む力である。合わせる術である。対立を避ける心理である。議論と称する談合である。権威らしきものに弱いのである。流布する意見を無条件で信じる習性である。新聞テレビが大好きで、疑わないのである。出る者を抑え、遅れるものを馬鹿にするのである。みんな一緒が大好きで、同じ鍋に入れるのである。こぼれた者を踏みつけるのである。

その他いくつでも出るのだが、つまりは、相手を疑わない。というより、疑うことを恐れている。意見の相違が怖いのである。だから、あらかじめ信じてしまうのである。

これは小学校に入学以来の教育の成果である。如何思うにや。

小学校に入学して以来、子供たちは、学級の決めごとに合わせるように、突出も停滞もしてはいけないのだと、執拗に訓練される。集団への同調を強いられる。
これはもう、すさまじいばかりで、子供の性格を無視して、担任教員が仕事を進めやすいように、担任の思うような色に染めようとする。

このことが嫌で、我が子の教育に一家言ある親は、運動会や団体行動をせざるを得ないときは、欠席させたりした。はなはだしきは転校した。

それももう昔の話である。

今でも、周りに合わせることを大切とする「同調圧力」があるにはあるが、子供もわがままができるようになった。

こう言うと、良いことのようだがそうではない。今度は、自由放任が行き過ぎて、教室が無法状態になってきた。
個人の自由を通り越して、出鱈目な放縦と専横とが教室を支配するようになった。

本の学校の「みんな同じ主義」は、行動や考え方を一律に押し付るという短所と、教室内の静謐を保つという長所とがあったのである。

「自分の考え」とやらで、行動するようになると、あっという間に、無法状態が常態化するのはなぜだろうか。規律らしきものがあっても、内在化しないのはなぜだろう。

子供も大人も、いつも誰かの奴隷であったほうが、幸せなのだろうか。たぶんそうだろう。