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ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ (hatena部)

授業で嘘八百。アクティブ・ラーニング、ポスターセッション、調べ学習。

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アクティブラーニングなるものが流行っていて、大学から小学校まで大騒ぎである。
「経験から学ぶ」なんて、美辞麗句を連ねても、なーに、不勉強な生徒や学生に、なんとか勉強していただこうという魂胆である。

勉強しない奴は放っておけばいい、後の人生で後悔するがいい、と言うと身も蓋もないが、いつもながらの、とって付けたようなサービスごっこが、愚劣なのである。

もっとも、これは、本気で子供の将来のために、行っているのではない。新しそうな言葉を流行らせて、出版業者や、たださえ暇を持て余している大学教員達が、稼ぎ時とばかりに、騒ぎを大きくしようとしているのである。
自分で自分を励ましたり、褒め上げたり、危機感のような空気を盛り上げたりして、マスコミ屋・大学教員らの類の狂奔するのは、毎度のことである。新聞社やNHKの得意とするところ。紙面や放送中に、図々しくも、平気で自分たちを売り出す。

さて、この「アクティブラーニング」であるが、せいぜい、もって5年か、6年だろう。予算さえ分捕って仕舞えばこっちのもので、どうせ、消えてなくなる。
学生に見え透いたアンケートを書かせて、報告書をでっち上げるだろうことも、予想がつく。
大学のア・ラ関係者は、教室にソファを持ち込んだり、移動机に乗っかったパソコン台数が自慢で、嬉しくてたまらない。遊園地やアキバのゲーム遊戯室ではあるまいに、みんなで輪になってピコピコやって、楽しげである。学生に、口からでまかせの、しかも空気を読んだツイッターもどきの発言をさせて、大満足である。


勉強は、義務教育を過ぎたら、やりたくてするのが本筋で、サービス過剰になったのは、学校が多すぎるのである。または、学校に行かせたがる親が多すぎるのである。
学校に行ったところで、その人間が、何者かになるわけではない。
当人は当人である。お宅の子供である。親を見れば、自分を振り返れば、おおよそ見当がついてもよさそうなものである。

あれもこれも、自家製リサイクルのように、教員らを食わせるために、社会全体で煽っているのである。

アクティブラーニングの流行語の有効期限は、過去の教育政策ごっこ同様、短いだろう。
それまで、せいぜい利用して、金をふんだくるがいい。

ついでに言えば、以前流行ったポスターセッションも、あっという間に消えてなくなった。

小学校中学校高等学校の「総合的学習の時間」(小学校低学年は「生活科」と称す)は、ほとんど無意味なことが明らかになった今も、惰性で時間つぶしをさせている。

あんなものを、学校で取り扱う「学習」だと、本気で考えているとしたら、不勉強を通り越して、笑止の極みである。馬鹿も休み休み言え。
文科省の中の一部の担当者の、保身と自己宣伝と利己主義との結果が、「総合的な学習の時間」である。

最初から、思い付きの遊びに過ぎず、結局失敗するだろうぐらいは、想像がつきそうなものである。
しかし、当時、多くの人は、なんだか「革新で良いこと」のように理解し、歓迎したのではないか。特に、不勉強で頑迷が売り物のマスコミ各社は大歓迎した。
あまりに不明である。軽率である。

しかし、今となっては、どうにもならない。その責任はいったい誰がとるのだろうか。文科省で、推進した寺脇某氏は、今何をやっているのだろう。

当然ながら、「総合的学習の時間」が現行指導要領にある限り、時間割に入れなければならぬ。その時間は、何かをしたふりをしなくてはならぬ。
それなりの工夫があるのだろう。ご苦労である。

小中学校で、今でも残る「ポスターセッション」に「調べ学習」。
学習なんかではない、その内容は「感想」ごっこである。
教員も子どもも、自分のやっていることの全体がみえないままに、右往左往している。
子どもが可哀想である。
学問の土台とも言えないものを、多くの時間を費やして、ふらふらしている有様は見てはおられない。

「今度の授業は、ポスターセッションです」と、元気におっしゃる。
カタカナを使えば、それらしく見えるという浅はかな了見である。
おおかた、どこかの大学教員がもったいをつけて紹介し、教員達が飛びついたのだろう。
学習の訓練とは、似て非なるもので、子どもにあらかじめ調べさせてきた内容(これが「調べ学習」だそうな)を勝手に話させて、それを少人数の子どもに聞かせて、お決まりの質問だの意見らしきものを言わせるという、「ままごと」以下のていたらくである。
これは、断じて授業なんかではない。

「てにをは」も満足に書けない子どもに、レポーターの真似事である。無茶も休み休みにしろ。

体育館で、大勢集めて、なんとかかんとか、説明らしきことをした後、ばらばらと歩き回り、紙芝居のようなことをする。

これ以上書くのも、虚しいから、もう止めるが、そもそもがポスターセッションは、院生達の頼りない研究の発表の場として、大学構内の廊下で始まったものである。

よくある壇上での学会発表と違って、聞き手との距離が近く、質問も応答もどんどんできるし、自由度が高いと言う長所がある。しかしながら、さほどの研究発表の場ではないことは、なんとなくお分かりだろう。
院生以上なら、それなりの意味はあるだろう。
しかしこれを小学生にやらせるなんて、泥沼の上に高層ビルを建てるようなものである。目新しければ良いってものではない。

実は、これには理由がある。授業を他人に見せるとき、教員の心理として、自分でパフォーマンスはしたくない(自分で踊ると実力が明らかになってしまう)の である。むしろ、子どもの発表という形にして、自分は表に出たくないのである。その点、調べ学習だのポスターセッションだのは、まことに都合がよろしい。
何日だが何週間だか準備して、子どもに演技よろしく、練習させて、さて、本番は子どもにやらせれば、なんとなく授業が一丁上がりとなる。
教員の皆が皆とは言わないが、このような心理が働いて、ポスターセッションが、流行ったのである。
総合的学習好きの人も以下同文であり、中身は何でもないくせに、名前だけがカタカナ風スマホ言葉の、「アクティブラーニング」も、御同様である。