授業批評5
指導者が発言しすぎかもしれない。
ノートに書かせる場合は、書く時間をとること。
その間は、指導者は次々と発言しない。授業での沈黙に耐えること。
特に、大勢の参観者のいる公開研究授業では、静かな状況に指導者自身が耐えきれなくなり、話し過ぎになる。
ロバの説明をたずねる。挙手した子供を、指名して話させた。話を知っている子供に、筋を言わせた。それを聞いてない児童に対して、
今の○○君の説明を言つてみて、というふうな指導。きちんと聞くように、という指導のつもりだろうが、不要である。話の筋も、不要。
子供に「本を持つて聞きましょう」。まあいいが、これを続けないこと。指導者の考える「学習規律」が、できてきたら、黙読では、教科書は机に置いた方が集中する。線をひいたりする作業がある場合はなおさらである。
一授業で、一回は指導者自身が、声を出して読むこと。
①の設問が難しい。
「書いてから発表しよう」は、よろしい。最初はつらいものだが、だんだん慣れる。
設問が、板書も、プリントも、バランスが悪い。肝心の書くスペースが足りない。設問の表記にも、工夫すること。
②は、短く分けたほうがいい。そして短く答えさせるほうがいい。
多くの場面展開をまとめて書く力は、この学級の子どもには、まだない。焦るな。
しかし、物語のすじ・内容の確認を、黒板でいちいち示したのは、不要だ。このくらいの短い話は、一読でつかめるのではないか。
ここでのねらいは、内容そのものよりも、そこからある衝撃を受けて、自分の行動変容を起こすことに意味がある。今の道徳の流行りの一種。
判断力を養成するのが目的かどうかを、検討しておくこと。
内容理解に時間をかけすぎて、内面葛藤の吟味の時間が足りない。
児童の判断、という点の吟味が必要だ。..
②で、子供から、一つ一つのエピソードか、全部か、という質問が出た。指導者の設定のまずさのためである。しかし、すぐに子供が反応したことは良かった。ーーーと言いたいところだが、そうではない。あれは、検討の結果の疑問ではなく、設定そのものが理解不能で、質問せざるを得ない。それほどに、設定がまずかった。
③では、児童に書かせる時間が少なすぎる
指導者の期待した内容が、子供から出てこなかった。行為と行為の理由との混乱があった。
人の言いなり・・・指示する子供が0人の意見を同列に扱わないこと。ひとりの意見にも、子供によって、軽重・真偽がある。
指導者の最後のまとめ「自分で考えずに人のことばかりを聞いていると大変なことになる」「良いこともたくさんあったけど、それつて言われたまましたから? 自分で考えた.? 自分で考えて行動したからよかったってこともあるよね」「自分で考えることが大切」
と、ひとしきり説明の後、子供に書かせようとした時、
子供「ほんとのこと、書いていい?」
つまり子供は、本時授業で書くべきことが、建前だということを、ある程度知っている。
「どう思ったか」
これはけっこう難しい。
書かせるとき、もつと子供に任せよう。指導者が誘導しすぎかもしれない。
子供が自分のものを読むとき、子供全員に、「鉛筆置いて聞いて」。
これは、まだ書いている児童からすると、思考の流れが切れるのではないか。
自我の強さが他人の意見を取捨選択する力となる