ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ (hatena部)

まっとうな教員の悩みは、子供を押して引っ張り続けること。お疲れ様である。

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まっとうな教員ならば、四六時中、授業のことが頭を離れないはずである。授業について、悩むはずである。

子供の意欲をひきだすことと、持続させることとを考えているはずである。

たとえば、小学校での視聴覚で、パソコンの操作方法を教えるとき、何分または何時間、集中させることができるだろうか。パソコンで、何ができるかを、子供にはっきり自覚させているだろうか。

サッカーのような運動では、ゴールキックの練習は、サッカーが好きな子どもに(そうでないに子も)、何時間も熱心に取り組ませることは容易である。

自分から興味をもった内容に関しては、学習意欲は持続する。

反対に、興味を持たない内容、また、自分自身で全体をコントロールできないような内容に関しては、ほとんど続かない。

 

教員や地域のボランティアのように、子供を指導をする大人たちは、子供に興味を持たせ、自発的に学ぶような手立てを考える必要がある(自発的とか自主的とかいう言葉は、耳に心地よく響く。しかし、実際は、錯覚に過ぎないこともある)。

この手立てが、実はなかなか難しい。教員の仕事は、この一点にある、といっても過言ではない。

わがまま勝手で、飽きっぽく、落ち着きのない子どもを前に、教員は途方にくれている。

子供が忍耐と探究心にあふれる学習態度であってほしいと、教員はみな願っている。

しかし、現実がそうでない場合、教員のとるべき方向は二つしかない。

現状に満足ないしは諦念して、そのまま可もなく不可もない毎日を過ごす。あるいは、現状打破のために、打てるべき手を打っていこうとする。

前者は論外として、後者の立場は、二つある。

ひとつは、ぐいぐいと児童生徒を押す、または引っ張る方法である。教員に、強い個性と力とが要求される。

今ひとつは、子どもに対して、猫なで声を出し、子どもに勉強していただこうという立場である。これは、現状をそのまま肯定して、どうやらこうやら日々を送るのに似ているが、内心では現状を強く否定しつつも、実際の方策が見つからない、あるいはその方策を実施できないのである。

しかしながら、学習は、学習者にやっていただくものであろうか。孔子に「自分から進んで学ばないようなものは、私は指導できないよ」というほどの言葉がある。

あの手この手で、子どもの興味を引き出し、そして勉強していただく方法では、学んだり、問題を考え続けたりするには、いかにも脆弱であり、持続のないもののように思うのである。

日夜、教員たちが悩んでいるのも、実はここにある。学習への興味と関心とを強く動機付けるような教育方法、授業法はないものであろうか。もしあるとすれば、それはどのような形を持つものであろうか。

またも、しかしながら、生まれつきというか天分と言い換えてもよいが、才能あるいは向き不向き、好き嫌い等となどは、大切であるし、実際、ひとり一人顔形が違うように、もって生まれた学習への興味関心に差があることは、事実であり、当然なことである。

また、育っていく過程で、誰と会ったか、どんな縁があったかで、子供の学習への意欲や態度は変わってくる。

コンピュータ、特にネットの発達は、教育に大きな変化を与えてきた。いやそんなことはない、教育は実際の人間対人間の関係で、デジタルが入り込む余地はない、というと、いかにも情緒っぽく、一般受けがする。

教育が人間を媒介として成り立っていることは、事実であり、当然なことである。ことさらに主張しても、空疎である。

学習は多くの子どもにとっては、苦痛以外の何モノでもないようである。苦痛を避けて、できるだけ快適さを求めるという現代の人間の欲望からすれば、子どもに苦痛を与えてはならないのだから、勉強を強いてやらせなくてもよさそうである。

だとすれば、これは一部のいわゆる勉強好きな子どもにのみ学習は開かれていて、その他大勢は、別段勉強しなくてもよいという制度があってよさそうなものだが、決してそのような制度は、発展途上国はともかくとして、どこにも見つからない。

これはどういうことだろうか。

私たちは、学習の必要性を認めているからこそ、強制してでも子どもには学習させるべきだということを知っている。

興味関心は、子供を、押して引っ張って、勉強させて、その後に子供自身から出てくるものならば、出てくるのであろう。

教員の悩みは永遠に尽きないことだろう。

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