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ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ (サブ倉庫)

危険な子供を「排除」する方法。荒れた学級や学校の大騒動。

「問題」な子供たち

paruru kijiyou

授業中に、そわそわいらいらと、落ち着きのない学級がある。

授業では猫を被って、休憩中や放課後に、悪さをする子の多い学級がある。児童生徒のほとんどに、「問題行動」が目立つ学級がある。

そんな学級ばかりの学校もある。

問題の学校とか、問題の地域と、呼ぶことが多い。

日本では子供を本来的に善とみる。

子供は可愛い、無邪気である、天真爛漫とまではいかないが、ともかく、邪悪な存在とは見ない。そして実際に、ほとんどの場合、子供は善意なのである。

学校でも同じことで、教員は児童を善意であると解釈している。教員は、児童生徒に悪意を持って接することはない。あったとしてもごくごく例外である。

ならば、善と善とが邂逅したのである。まことにめでたい。

しかし、実際はそう簡単ではない。

問題行動を起こす子供が、学級に、二人や三人いるのは普通である。

ただし、問題行動の量と質とによる。

非常な暴力で同級の児童生徒に物理的心理的な損害を与える場合は、それがたとえ一年に一度だったからといって看過できない。学級に一人しかいないからといって、油断できない。

危険な行為が一月に一度、毎週、毎日、毎時間であったとすれば、どうであろうか。

子供には可塑性があるからとか、指導によって今後を見守ろうとかでは、全然間に合わないのである。

そういう児童生徒は、他の子供の生存と安全とのためにも、即刻排除しなければならない。学校職員のみならず、児童相談所、学校カウンセラー等と連携して、当該児童生徒を停学にして学級に近づけてはならない。

教員は学級の児童生徒全人に責任を持つ。学級で教員が行うところの、安全で円滑な教育活動を著しく妨げる要因は、それがたとえ自らが担当する学級の子供であったとしても、排除しなければならないのである。それが、学級なり教科担当を預かる者の義務であり権利である。

以上の点が、日本の学校教育、特に義務教育期である小学校中学校では曖昧なままである。冷静に判断しようとしない。何ものかを恐れている。

教員の学級指導力や地域の教育力、子供の家庭環境等に原因を求めて、当該児童生徒はむしろ被害者なのだから、我々大人が、子供の気持ちを理解してやり、味方になり、見守っていこう、という結論になりやすい。

子供の暴力行為を性善説で割り切ってしまう。当該児童生徒の遺伝形質や家族の状態を見て見ぬ振りをする。

簡単に言えば、親や育ちを無視する。悪いのは学校であり、教員であり、学級の「他の」子供たちだということにする。

いつの間にか、加害者が被害者となって、問題行動の常習犯は、無垢な天使になってしまっている。

よくある話である。