読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ (サブ倉庫)

死ぬまで医者は医者。「校長」と呼ぶと怒り出す。

paru 2

以下は、知人から聞いた話である。

近頃の校長は変わっている。
校内で、教職員が「校長」と呼ぶと、怒り出す。どうやら「○○校長先生」と呼ばないと機嫌が悪いようだ。教頭も以下同文で、同僚教員が「○○教頭」と呼ぶと、ぷいと横を向く。
「○○教頭先生」と言ってやらないと、気分を害するようなのである。
これはまた不思議なことではあるまいか。

以前はそうではなかった。
地域から信頼され、教員が教師としての威厳があった(または、あるような雰囲気があった )頃は、校内では「校長さん」、または「××校長」「○○教頭」で通用したし、それはそれで目くじら立てることではなかった。
どういうわけか、今では、校長や教頭は、妙に繊細で神経質なのである。

原因は要するに、自信喪失である。

誰からも尊敬も信頼もされてない(ごくまれな例外はあるかもしれない)。顔見せパンダのような存在が、学校長であり、その補佐役兼 ご機嫌取りが教頭である。せめて、同じ校内の教職員には、「○○校長先生」だの「△□教先生」だのと呼ばせて、「アイデンテテイ」を確認したい ものらしい。
げに浅ましいが、それが人間である。目くじらを立てるには及ばない。


教員は、いまだに児童生徒やその親からは、表向きは、ちゃんと「何何先生」と呼ばれている。それは当然である。なんと言っても学問を直接に教えてくださる師匠である。この人たち以外に「先生」がいるであろうか。いるわけがない。
だから、学級担任が「何々先生」と子どもから、親から、同僚教員から呼ばれるのは当然すぎるほど当然だ。

しかし、残念ながら校長や教頭はここには含まれない。彼らは、直接児童生徒を教える者ではない。この区別はきちんとするべきである。
対外的に学校を「代表」するのは校長ではあるが、直接の子どもの先生とは言えない。学校現場の事務手続き上の管理者に過ぎない。
実質的に教員を指導できる経験や学識のある「校長」など、滅多にいるものではない。無理な相談である。

親も、校長のことを、教員の悪口や陰口を受け止めさせる相手としてくらいにしか考えてはいない。
このあたりを間違わないようにしないと、また不幸な「○○校長先生」を作り出すので、老婆心ながら言っておく。


ところで、学校という団体・事業所が、対外的に校長を中心にまとまるべきであることは当然である。そのために校長は雇われている。だからこそ、今や細々と民間からの校長採用も行なわれるようになった(無論、そのほとんどは失敗した)。
外部からの雇われ校長は、勘違い人種が多いので、失敗はするものの、しかしながら、校長が必ず教員上がりである必要はない。
むしろ教員経験者でない方がよろしい場合もある。しかし、いかにも、人材不足である。

教員は採用されてから、退職のその日まで教員でいいのである。医者は死ぬまで医者だろう。教員は死ぬまで教員でいいのではないか。
教員は、一人の現場教員として、その職責を全うすべきだろう。そこにこそ、実力の向上や技量の円熟があるのではないか。それが不満だったり、耐えることができないのなら、辞めればいいのである。

校長もまた、管理者としての守備範囲をはっきりさせることができるなら、学校教育の様々な問題も、少しは、すっきりするのではないか。