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ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ (サブ倉庫)

テレビや新聞の悪い影響 宇多田ヒカルは?


かつてウタダヒカルとかいう歌い手が人気があったらしい。
その日本語の語感を無視した意味不明な歌詞とメロディとで、話題になり、一世を風靡したようである。
音として聞くには、なかなかに結構である。

当時から、正しい日本語のアクセントではない、歌詞がよく聞き取れない、などの批判があった。
先ほど、久しぶりに古いCDを引っ張り出して聞いてみたが、思ったほど悪くない。
このCDが出てからからずいぶんたったし、今はウタダ以上に、日本語の歌詞や発音がひどいことになっている歌い手連中ばかりなので、ウタダがむしろ聞きやすいと感じるぐらいである。
発音の問題は、一つには、この歌い手が一応英語を話すらしいので、英語のように耳に依存する言葉と、日本語のように目に依存する言葉との違いを、本人が十分意識していなかったこともあるのだろう。
自分の日本語の歌詞やその発音を、彼女はそれほど悪いとは考えていないかもしれない(私にはマライヤ・キャリーの物真似としか思えないのだが)。

さて、本題はこれからである。それは、テレビやラジオに出てくる話し手の発音と日本語の使い方とが、あまりに汚いことである。
発音が悪いところに持ってきて、話の内容が曖昧模糊としており、また一文一文が意味をなしていない。そのくせ、妙に以心伝心を期待するような阿(おもね)りがある。

あれは国語の敵である。
即刻、子どもと教員とは、テレビ・ラジオを視聴するのを止めた方がよい。テレビなんぞを見るより、日本語の名文を朗読させ、古文に親しませた方が良いに決まっている。

テレビにラジオに新聞その他は、インテリぶってはいるが、どうせ本音はエンターテイメントである。
娯楽が悪いとは言わない。娯楽、大いに結構である。
だが、マスコミ(特に新聞は)は、自分を娯楽だとは思っていないようだ。
よりによって「真実」の「求道者」だとか、「民意の先導者」だとか、勝手に勘違いしている。この勘違いが怖い。

テレビも、自分では「報道機関」だと、本気に考えている節がある。舞い上がって、挙げ句の果てには「使命感」などと言い出す。
お笑いと他人の悪口とゴシップで屋台骨を支えているくせに、国民を教化できる気でいる。


どこまで、傲慢で野蛮で卑劣なのだろう。
ゆめゆめ、油断してはならない連中である。


そういえば、先日、知人の子が学校から、「NIE」なんとかのチラシを持って帰ったそうだ。新聞を読もう、との宣伝紙である。こんな拡販材料を、新聞社の宣伝人から受けとって、子どもに配る学校も学校である。

新聞は、ネットの普及で、先行きが暗い。購買層を今から確保しておこうという魂胆だろう。
「新聞を通しての教育」だって? 冗談じゃあない。何様のつもりだ。

願わくば、教員達が、また新たな「のぼせ上がる対象」を、新聞を通しての学習、とやらに求めないことを願う。