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ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ (サブ倉庫)

中学校や高校の教員の自殺の原因とペルソナ。

高校教員

paru 2


すべての職業人には、その職業特有のペルソナがある。
教員には教員のペルソナがある。


ペルソナの表面は、どんどん崩れてきている。それはそれでいい。本音の時代なのだろう。
宗教に代表される心の規定装置は、人に安心感を与えるとともに、その反面、教理の枠内で行動をすることを命令する。
簡単に言えば、目先のことだけ見て生活するのが安心、ということである。

自殺した勤め人(教員を含む)をつらつら考えるに、端から見れば、なんてこともない出来事が、本人にとっては、大きな心的ダメージになったことが推測される。
組織体で、本人がよかれと考えてしたことが、結果的に失敗に終わり(客観的に失敗でなくとも、本人が失敗であると自覚したとき)、その責任を被らされたときが、自殺の契機となっている場合がある。
ただし、人間は自分の判断で行動したのなら、それが失敗でも、自殺まではほとんどの場合、至らない。
現実に自殺に至ったのは、「面当て自殺」(私の造語である)であることが多い。
面当てとは、まさに憎く思う人の前で、わざと意地悪いことをして困らせることである。あてつけである。
校長が、学校内で自殺するなどということはその典型で、あとの児童生徒や教職員のことなんか、全然かまっていない。自殺する場所は他にあるはずであろうに。つまり、彼らが憎かったということである。



さて、「面当て自殺」の多くは、本人の意志に基づかない行動を、本人が立場上(無理矢理に)とらされた時、その結果が不本意なときに、起こりやすい。
「自分で自分の行動に責任をとれ」なんて、幼児にも分かることで、自分の判断による失敗は、自殺までには至らないことが多い。
人間はもともと図々しい存在である。

ところが、自分以外の原因によって、自分の行動を規定されたときには、一時は我慢していても、ついには内なる自分が爆発する。
その爆発を、自殺という形で出すことが、一番、周りの人々や世間にインパクトがある。それを本人は知っていて、自殺するのである。

だが、学校教員が学校内で自殺することは、やはり許されてはならないことである。
なぜ、教育委員会事務所ではだめなのか。文部科学省内では? 都庁や県庁市役所の玄関では? 自宅では? 裏山では? 繁華街の路上では?

だが、答えは出ている。


学校もまた、一企業、一施設である。
だから、その場所では何でもある。
そのことを、親も子も、すでに知っているのかもしれない。


時間が、様々な事柄を、結局は水のように流してしまうことを、時とともに成長し続ける子どもは、とっくの昔に知っているのかもしれない。