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ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ (サブ倉庫)

嘘くさい「活発な授業」と子供の交流。

小学校の授業


 教員は、授業を、一方的な思い込みで判断しがちである。
子供が手を挙げていさえすれば、「活発な授業」だと思う。子供が、思いつきの発言をしたら、「発表が多かった」と満足する。
ざわざわと隣の子供と無駄話をしていても、「子ども同士の交流があった」と言う。

授業は、子供の知性を高めるためにあることを忘れている。
授業が、集団的馴れ合いになっていても、それを望ましいことのように勘違いしている。自分に都合の良いように、授業を判断してしまうのだ。

これには理由がある。
第一には、子供の学力をどんどん高めるような実力のある教員は、きわめて少ないことだ。
授業を、学力の向上があったかどうか、知性を鍛えたかどうかではなく、教員と子供、子供と子供の関連によって、判断しようとする傾向になった。
授業中、何人の子供が手を挙げただの、何人が発言しただの、グループごとに子供同士の相談があったこと等が、よい授業の条件のように考えられている。


外見として活発そうな授業をすることなど、どんな教員にとっても、比較的に楽なことである。
子供に手を挙げさせることなど、少しばかりの工夫でなんとでもなる。
子どもは教員の顔色をうかがう。教員の望んでいることを、ちゃんと見抜いて、お芝居する。

第二には、日本独特のみんないっしょ主義である。
みんな同じように同列で、突出した者がいない方がいい。もともとが農耕社会だから、嫉妬深い。
優れた者がたまに出てくると、よってたかって八つ裂きにした。全員が、可もなし不可もなしであることが、一つ場所に定住する人間にとっては安心なのである。
学力を高めることを目的とすると、どうしても、教える教員にも子どもにも、差が出る。実力がはっきりしてしまう。それが嫌なのである。
だから、一番学力的に遅れがちな子ども(怠惰で、勉強嫌いで、テレビ好きな子)に合わせていたら、みんな安心である。安心しない子どもは、せっせと塾へ行くだろう。
学校は、授業で最低限をすればいい。  
こんな風潮になった。

繰り返しになるが、もう一度言う。
学力を高める授業をすると、「教師主導」だの、「子供同士の係わり合いが少なかった」、などととんちんかんに批判する。
学力をつける教員の授業を受ければ、当然、学級の子どもの学力はどんどん伸びる。それは認めざるを得ない。だから言うに事欠いて、「子ども同士の係わり合いが少なかった」等と言い出す。関わり合いだって? 社交ダンスや合同コンパじゃないだろう。

授業はシンプルにとらえたほうがいい。
学校教育での授業の判断基準はただひとつ。子どもに学力がついたかどうか、である。
言い換えれば、その授業で、子どもの知性は高まったかどうか、である。

授業で、学力以外のいろいろな点が向上すれば、それはそれで、めでたいことだ。
だが、学力向上を二の次にして、「係わり合い、高めあい、支えあう授業」といった言葉だけの奇麗事で授業を判断するのは愚かである。
言葉のお遊びが先行して、できもしないことを夢想する。これが一番危険なのだ。