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ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ (サブ倉庫)

入学試験のための猛烈勉強は、やっぱり得か。幸せと学問。

paru 2


人は、生まれたときから、何かを見たり、知ったりすることに、喜びを感じる傾向がある。
赤ん坊を見ていると、まわりからすべてを吸収しようとしているのがよく分かる。
知識を獲得することが、生まれ付いての楽しみであるのなら、学問そのものがすでに喜びではないか。学問は、それ自体、人間の幸福とつながっていることになる。

学問の目的は、幸福な人生とは何かという問いへの答えだろう。学ぶことが、幸福を追いかけると同時に、幸福を日々達成していることになるのではないか。
知識を得ようとするのは、何かを知る、発見する楽しみだからだろう。
日々新た、と言う。学び続ければ、必ずそうなるはずである。

しかし、現実は、裕福な人生への片道きっぷとして、学問は考えられているのではないか。その例を、受験勉強に見ることができる。
受験勉強は、ある一定期間、ある範囲の「学問」をすることで、教科の問題解決能力をつけるのが目的である。
簡単に言えば、競争試験に勝ち抜く力をつけることである。


競争試験は悪い風習ではない。切羽詰まった目的がないと、人間は勉強しないのが普通である。ある学校に入りたいがために、集中して勉強する経験は、なかなかに善いものだといえるだろう。

なぜ、入学試験に受かりたいかといえば、その学校に入りたいからである。
なぜ、その学校かといえば、人によって理由は様々だろう。
校風が好きだと か、尊敬する先生がいるとか、その中学や高校なら有名大学に入りやすいとか、卒業生に政界や経済界の実力者がいるから、とか様々であろう。
司法試験や、外交官試験の合格率が高い大学、医者になるために学部を選んだ、などであろう。それらは、なんとなく幸福のイメージに近いものがある。高い収益のある仕事と直結する場合、幸福への近道のような気がしてくる。
これは、常識人の考え方である。人間の素直な気持ちである。否定できない。この考えも認めたうえで、学問をする喜びを味わえばいい。

というのも、猛烈な受験勉強の結果、首尾よく目的の学校に入れたものの、勉強をだんだんしなくなり、はなはだしい場合は、ノイローゼになったり、学業不振におちいったりして、それ以後の学問との付き合いがストップする例が多くあるからである。

しかしながら、極端な例を出して、それがほとんどであるかのような言い方は公平とはいえないだろう。多くの場合は、うまくいっているのである。そうでなければ、あんなにも、みながみな、受験勉強に熱心になるわけがない。

どうやら受験勉強もまんざら悪くないどころか、むしろ奨励すべきもののように思えてきた。
勉強は、すればするほど、それなりのご褒美を受け取ることが多い、という、単純だが実例の多い結論になった。