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ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ (サブ倉庫)

攻撃されたとき、だれが守るか。教員の逃げ道は。

paru 2

組織は集合体である。組織の成員である私たち自身のことでもある。組織は、ずるいものである。

人を指さして、「あれは保身だ」といって嘲るが、では自分がその立場に立ったとき、保身をしないだろうか。
するだろう。

自分が助かるためには、隣人の首さえ絞めかねないのが、人情である。人情は、組織を動かし、人事も決める。これを情実という。

情実を嘆いても無駄だが、不思議なもので、人を守るのは人情である。

縁という、相性という。
人間は誰かを、攻撃したり、守ったり、味方の振りをして土壇場で裏ぎったり、油断させて崖っぷちから突き落としたり、こいつだけは助けよう、組織内で伸ばしてやろう、と肩入れしたりするのも、すべて、人情からである。

さて、親は、我が子のことだけしか、見えない。
それは仕方がないとしても、我が子である。満足できない我が子に対して、親である自分にも責任があると考えてよさそうなものだが、全然、考えない。自分と我が子以外の何者かが、悪人だと決めつける。
我が子も自分も正義であって、悪は他人の方だと考える。


学校では、担任教員が悪者である。あるいは「ろくでなしのクラスメート」達である。
この「思いこみ」を、聞きかじりの「教育論」「学習論」にカモフラージュして、教育事務所に出かける。匿名の電話をする。電子メールを送りつける。

事務所職員(教育委員会指導主事、管理主事)は、わはは、と笑って対応するかと思ったら、そうではない。

はじめ真っ青になって、その後、いまいましそうに舌打ちして、教員やその校長に、「注意」「指導」をする。事実関係を文書にして出せ、地域の理解を得よ、と生意気を言う。

そう言われたって、所詮、親の戯言である。まじめに取り合うのが馬鹿らしい。


大人ならそう思う。
ところが、校長はそうではない。極めて厳粛に受け止める。

煙の立たぬところには火はない、親の文句や投書にも、いくばくかの道理はあるのだろう。
教員は、人間相手の仕事である。しかも、生半かな仕事ではない。
今時の親の、その子どもをたくさん、まとめて、面倒を見ているのである。
どこかには隙も出るだろう(その隙が教育上大切でもあるのだが、ここでは述べない)。多少のミスもあるだろう。
そのミスが、文句を言いたいばかりの親には、絶好のターゲットとなる。
隅をつついて喜ぶのである。

ここまでお読みの方はお分かりのように、私は、現場の教員の味方である。これが味方にならずにいられようか。

教育事務所職員らも同情の余地がある。保身こそ命だから、親からの突き上げが、学校現場から離れていても怖い。しかも、彼らには、学校を「監督」「指導」する、という「名目」がある。

こんな甘えた現状を打破する方法はないのだろうか。
ないといえばないし、あるといえばある。

簡単な方策の一つは、仕事範囲の確認である。
必要なことを明確にして、それ以外のことをしない。雰囲気で守備範囲を決めないことである。やるべきことは、自信と実力とをもって、厳しくやっていけばいいのである。

くどいようだが、学校教育の守備範囲の逸脱が、教育破壊の一番大きな原因である。
口先だけの平等主義がいけないのである。