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ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ (サブ倉庫)

無駄に多すぎる本は、良書を隠すためにある。


書店には書籍雑誌の類が山積みである。そして、それなりに売れているらしい。しかし売れ筋の本はごく一部で、ほとんどは返本となる。
無駄に多すぎるのである。

あれは、本が豊富なのではない。数少ない良書を、読み手の目に触れさせないように、駄本で取り囲んでいるのである。読むべき本を、ごみ本の中に埋没させ、すぐには見つけることができないようにさせるためである。

次から次へと印刷される月刊誌、シリーズ本、新書文庫の類は、出たと同時に大量廃棄物である。
出版社も商売だから仕方がないが、平気で出すのは、それなりに売れるからだろう。してみると、日本人の新しいもの好きも相当なものである。

出版業は虚業である。正業の仮面をかぶったイカサマである。客にとりあえず、買わせればいい。
「どうすれば売れるだろう」と、ない知恵絞って、アイデアを搾り出す。その場限りで、売れてしまえば、後は野となれ山となれ、である。

ところで、古人は、多くの学問的遺産を残したが、彼らには読むべき書物は多くはなかった。
数少ない良書を熟読吟味して、新しい創造へと結びつけた。

現代ではどうだろう。
書物はあふれかえり、誰でも簡単に手に取れる。
書物の山を片っ端から読んだとしても、それでいったいどうなるのだろう。
繰り返しになるが、読まないほうがよいような、時間と金と資源の無駄になるような、そんな本が多すぎる。
ごく少数の良書は、読む意味のない、または絶対に読むべきではない大量の本の中に、埋もれてしまっている。

インターネットの普及した現代を、仮にネット時代と呼ぶのなら、ネット時代の読書とは、数少ない良書のみを読むことをいう。
多くの知識、細々とした知識の断片は、ネットで検索し、参照すればいいのである。
基本書とネット検索の技術とがあれば、それなりの理解に到達できるのではないだろうか。

国語の授業の目的は、児童生徒が自分にとっての良書を、他の多くの愚書から読み分けて、選択できる「鑑識眼」を育てることではなかろうか。