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ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ (サブ倉庫)

中学校教員は授業が下手なのか。大学教員はそもそも授業になってない。


過日、公立中学校の授業を見る機会があった。中学3年生である。英語、数学、国語の授業を何クラスか参観した。

あいかわらず、中学教員の多くは授業が下手である。


その次に下手なのは、高校教員。大学教員は論外。大学教員のそれは、授業というよりは、独りよがりのつぶやきにすぎないことが多い。


某中学の授業では、教員は黒板に教科書と同様の図を書きなぐり、ときどき、生徒の方に振り返っては、教科書のページを棒読みする。
生徒を前に出させて、黒板に書かせたり生徒自身が考えた解法を説明させたりすることをしない。どういうわけだろうか。
うまく指導すれば、生徒の発表も可能であるはずなのに。


女性教員によくあるタイプだが、大声を張り上げる。何とか生徒達を授業に入り込ませたい気持ちはわかるが、声を大きくすればするほど、知性はどこかに飛んでいく。むしろ、声は小さいほうがいいのである。

授業構成は、教員が一方的に話しているだけのものがほとんどであった。それも「簡潔にして要領がよく、興味をひいておもしろい」のならば、まだ救いようがあるのだが、だらだらと冗漫で、暗く自信のない様子である。

お決まりのプリントを配り、生徒達は、漫然と書き込んだりして、手持ちぶたさである。しかも、例によって自己評価(よくできた・できた・もう少し。自分のことを自分で○をする)とかの欄がある。こんな偽善があるだろうか。しかも、自己評価をする行為そのものが、授業の目的になってしまっている。

何より問題なのは、この「授業」のようなものが、授業として成立している、と、教員も子どもも信じ込んでいることだ。

中学生は、小学生の次の段階で、年齢的にも近いのだから、小学校教員の授業レベルの、せめて半分程度くらいは、中学校教員も効果のある授業をするべきだろう。

とはいえ、私は、一部(あるいはほとんど)の小学校教員が、授業に凝りすぎてしまうことを、苦々しく感じている。
何でも屋であることを要求されている小学校教員は、ただでさえ、殺人的に忙しい。


毎時間の授業を、繊細に精緻に、「完成度」を求める準備作業ばかりに、日々のエネルギーのほとんどを使っては、なんのことやら、である。授業の効果は、準備した割には少なく、自己満足に過ぎない。あれでは、毎日へとへとになってしまうだろう。

小学校教員は、授業方法にいたずらに凝ることなく、淡々と授業を進めるようにすればいいのではないか。知的迫力のある授業は、授業の明確な目的と、知識と自信とを教員が持ってさえいれば、できるはずである。

それはともかく、中学校に話を戻そう。
中学の授業レベルは年々落ちてきている。もちろん、学習の基準となる「学習指導要領」が、ご存じのように、あきれかえるほど、レベルダウンしているので、一方的に中学教員のせいばかりとはいえない。
だからといって、授業の工夫もしない、教員が知的レベルを高める努力もしないようでは、ますます泥沼にはまって行く。
今、全国の多くの公立中学校で行われている授業では、並の中学生なら、その単調さと、知的な格闘のない平板な時間つぶしに、きっと嫌になることだろう。

教材も教える方法も、数年前と比較しても、程度が下がっている。だから、子どもがついてこない。知的興奮がないからである。

子どもの授業態度が年々悪くなり、指導そのものが難しくなってきていることは認めよう。しかしそれは、授業がお粗末であってよいことにはならない。授業を、教員の意識で変えていけば、倦怠の塊のような中学生でも、いくらかは蘇生するはずだ。