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ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ (サブ倉庫)

教員志望者のみなさんへ。教職は魅力的な「お仕事」。


教員の仕事は、いったいどのような仕事であろうか。教育現場は、綱渡りのようなところがあるので、常に考えておかなければならないことのように思える。

たとえば、相手が同僚であれ、保護者であれ、児童生徒学生であれ、軋轢が起こることが予想されても、言うべきは言うという態度が必要である。
意見を言えば、反発が予想されるので、はっきり言わなかったり、無難に済ませることを第一にしていると、ついには明らかな間違いまで、言わずにおいてしまおう、無難に切り抜けよう、という習性になる。
言ってしまって、それに対する反論があれば、聞けばいいのである。
反論が間違っていれば、無視するか、またはその間違いを指摘する。聞くべき点があれば聞いてやり、改善または変更すべき点があればそのようにすればよい。
問題は、後の面倒を嫌がって、最初から避けようとする態度である。これでは現場の変化に対応できない。

教員に限らず、無難に過ごすことが、社会でうまくやっていく条件であった。
だが、これからは、様々な体験が、とりわけ失敗体験が生かされていく時代になっていくだろうし、そうあってほしいと思う。
失敗した経験は、失敗するだけのことを、実際に行ったのである。その経験は、すでに財産といってよい。
企業なり官庁なり、あるいは他の集団でも同じであろうが、目立ないで、無難に過ごすことが、良い評価をされることが多かった。今でもそうである。
しかし何事も人並みか人並み以下にこなして、それで役職が上がったからといって、どれほどの満足感が得られることだろう。
待遇、収入面、名誉欲等は多少満足させられるだろう。これらが、人生において重要なことであるかどうかは人によって違う。
これしきのこと、と思える人とそうでない人とが、いる。
だから、あえて、ことを構えないというのも、ひとつの見識である。
その逆に、断固として、初志を貫徹する人もいるだろう。これは価値観の問題で、難しい。

残念なことであるが、一人の教員の力では、学級全体を制御できない事例が多い。学校の教員の総合的な力で、ようやく物事が進むことになる。
教員一人一人の力を馬鹿にしている行政は、「学校全体で取り組む」ということを、ことあるごとに繰り返すが、仕方のないことである。
たとえば学級担任と専科教員の問題である。学級では安定して授業を受けていても、音楽や家庭科の時間を他の教員が担当する場合、担当教員によって児童生徒が態度を変えることがよくある。
これは人間同士であるから、当然といえば当然であるが、問題は、専科の授業での態度が特に悪く、その結果、専科教員が担任に対して、要望や不満をぶつけてくる場合である。

これは、家庭での子どもの躾そのものができていないことによるところが大きく、学校との問題を切り離してもよいくらいなのだが、もう一方では、当該教員の力量が関係してくることもある。
子どもは相手によって態度を変えることはしばしばであるし、いわば人を見るという点において、抜け目がない。
だから、専科教員は、もちろん担任教員も、指導の力量ということを、自分でも常に反省しながら進めていかないと難しいことになるだろう。
 
長くなったついでに、もうひとつ言っておく。
若い教員が、児童生徒に人気があり、体力に任せて、子供と汗みどろになって休憩中に児童生徒と遊んだりする。第三者から見ても、なかなかよいものである。しかし、教員も年齢とともに時間的にも体力的にも、そうもいかなくなる。だから、それはそれで、教員を続けていれば、ある種の諦めが必要になる時が来る。
年齢以外にも、容姿容貌性別等、色々な諸条件が加わって、教員と子供との関係は異なってくる。
たとえば、中学校の女性教員の場合、妙に男勝りというか、言葉が男言葉で力んだ調子で話す人が時々いる。これは、今時の中学生という、相手が相手なので、甘く見られないようにという予防線なのであろうが、これは下手なやり方である。ますます教員自身の立場を危ういものにする。
女性は女性の、男性は男性の、また若い人は若いなりに、そうでない人はそれなりに自分の特徴を出してやっていけばよいし、それしかないのである。
教員の持ち味を生かすという点では、年齢性別に限らないことはもちろんである。自分のやり方で、指導要領に沿って、授業を進めればよい。だから、たとえば女性は女性の優しさとか母性というような点からアプローチすることがよいのではないか。
また、若い男性教員なら、児童生徒と常に一緒に動いたり、年齢が近い感覚を生かして、やっていけばよいのである。
どうも、あまり明るい話にはならないのだが、教員志願の若い人が多いので、少しばかり言ったのである。