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ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ (サブ倉庫)

競争を嫌がる心理 コンピュータ教育、ネット学習とインチキ平等主義など



以前にも、似たようなことを話した気がするが、もう一度。

コンピュータとネットの普及は、教育方法に大きな変化を与えるだろう。
いやそんなことはない、教育は人間対人間の関係で、機械などが入り込む余地のない問題なのだ、というと、いかにも情緒っぽく、一般受けしそうだが、実はこれはまったくの間違いなのだ。
教育が人間を媒介として成り立っているのは、いうまでもなく当然であり、論じても益はない。問題は機械をどのように利用するかである。

たとえば、地域によっては、学校現場に、感情、情緒、思いこみ等が、必要以上に入り込んで、伝統的な読書算盤といった学習の基礎技能が、軽視されていることがある。
「仲良く、助け合って、支えあって、思いやり」等々の言葉に、絶対的な価値があるかのように飛びついてしまう。その言葉に教員も子どもも振り回されて、逃れられなくなってしまう。

これらの言葉は、常識的に考えると、奇麗事ともとれるが、ことばそのものの意味は、間違ったことではないので、誰も表立っては反論できない。
戦後の社会主義的な教育が、骨の髄まで浸透し、大の大人から、その大人によって教え込まれた子どもにいたるまで、絶対的な価値として塗り固められた結果といえるだろう。

「仲良く、思いやり、支えあう」というのは、結局、競争の否定となる。


競争が実は実際にはあるにもかかわらず、学校内部では、特に教員の頭の中では(ある種の保護者の中にも)、憎むべきものとなり、およそ競争と関係あるものはすべてタブーとなった。

たとえば、運動会では「徒競走」ではなく、「みんなで走ろう」などという題名で、数人の子どもを走らせて、ゴールがなくそのまま直接見学席へ走りこませるといったことが平気で行われていたのである。これはゴールがあると、順番がついてしまって、足の遅い子どもの「心が傷つく」という理由からである。


リレーは、一部のかけっこの速い子どもを、スター扱いすることになるという理由や、リレーに出たい子どもがたくさんいたらどうするんだ、スポイルすることになるではないか、というような理由でリレーも禁止となる。 


人間はすべての面で、完全に平等であるべき、という極端な主義である。しかも、自分たちに都合のよいときは平等を持ち出し、都合が悪くなるとすぐ引っ込めるといった、ご都合平等主義である。


競争を憎むのである。勝者を憎むのである。
勝ち負けが、はっきりするくらいなら、競争しないという、発想である。
この手の「平等主義」なるものは、嫉妬の裏返しに過ぎない。

さて、話が脱線したようなので元に戻すと、学習は多くの子どもにとっては、やはり苦痛を伴った訓練であることは否定はできない。

苦痛を避けて、できるだけ快適さを求めるという現代の風潮からすれば、子どもに苦痛を与えてはならないということになり、勉強を強いてやらせなくてもよいということになりそうである。
だとすれば、これは一部のいわゆる勉強好きな子どもにのみ学習は開かれていて、その他大勢は、別段勉強しなくてもよいという制度があってよさそうなものだが、決してそのような制度は、世界中どこを捜しても見つからない。
これはどういうことだろうか。


私たちは、学習の必要性を認めているからこそ、強制してでも子どもには学習させるべきだということを知っているのではなかろうか。簡単に言うなら、国家間は弱肉強食だから、学習しないような国民は、やがて他国の奴隷になることを知っているからなのか。

そこで、最初に戻るわけだが、パソコンをはじめとする情報機器が、勉強をよりいっそう子どもに身近にする手立ての一つになっている、ということが言いたいわけである。
だから、やたら、人間を振り回さずに、ここは冷静にパソコンの効果と利用法とを、親も子も教員も考えていかなければならないのである。
なんとも、小さな当たり前の結論になってしまう。


パソコンを用意するには、金がかかり、その金はどうする?といった問題は、別な話になるだろう。