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ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ (サブ倉庫)

詰め込み教育が日本を救う。「ゆとり教育」は「お遊び」である。


ゆとり教育が日本を滅ぼす。
ならば、どんな教育が日本を救うのか、と問われれば、答えは案外に簡単である。
詰め込み教育こそが日本を救うのだ。

ゆとり教育の反対語が、詰め込み教育だそうである。
ならば、詰め込み教育こそが、教育らしい教育である。
「詰め込み」は、2トントラックに3トンのガラクタを押し込むような、なんだか無理なような、違法のようなイメージだが、人間の頭は、トラックの荷台ではない。何トンでも積み込むことができる。荷台から振り落ちたって構わない。

ある程度の知識を詰め込まなくて、いったい何を載せるというのだろう。
一定量以上の知識を詰め込んでこそ、創造に結びつく。無から有は生まれはしない。
少しでも知識らしきものがあって、新しい創造も可能である。
こんなことは、今さら書くの も恥ずかしいほどの常識だが、なぜか、教育に話が移ると、知識偏重だのガリ勉だの詰め込みだのと、悪いイメージにしたがる輩が多い。妙である。

知識重視、大いにけっこうではないか。
学校は、知識以外に何を教えようというのだろう。「知識」を従とし、「感情」を主としたいのだろうか。
その「感情」は、ロシア(ソ連)中国(シナ)に都合のよい「感情」ではなかろうか(あるいは米国やユダヤ資本が喜ぶような)。

社会主義的な「グループ学習」や、戦時中の隣組みたいな「班行動」が大好きで、「班の誰かのやったことは、みんなの責任、班全員で反省しなさい」というのが、口癖の教員が、以前は、どこの学校にも、うじゃうじゃいた。

国家転覆、社会主義革命の先兵を育てたいのなら、知識は不要である。必要な「知識」は、「マルクス絶対」と「爆弾の作り方」の二つがあれば足りるのだろう。

多くの教員達が、知識欲があり、努力をする「ガリ勉」を、嫌がったはずである。
しかし、革命ごっこ気取りの教員は、国民教育の場には、ふさわしくない。
山にこもって、小説でも書くがいい。


話は変わるが、知識とは記憶のことでもある。
ベルグソンの本に「人間とは記憶である」と、あったような、「記憶」がある。

私たちが生きていることは、記憶があることである。思い出と言い換えてもいい。思い出がなくなったら、それは人間ではなくなるのではないか。

それはともかく、
教育とは、詰め込みでもある。皆さんお好きな、フランスドイツイギリスアメリカついでに中国朝鮮台湾その他多くの国の、児童生徒学生は、昨日も今日も明日も、がりがりがりがり、脇目もふらずに勉強している。喜んで、知識を詰め込んでいる。
一方の日本では、ゆとりという「お遊び」が大切らしい。