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ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ (サブ倉庫)

学校での討論や会話が、論理的でないのは、なぜだろう。エリック・ロメール。


初等教育では、ことばと計算を徹底的に鍛えてほしい。
国語と算数とを中心に確実な知識を習得させる。
「読み書きそろばん」である。「基礎基本」の中身である。これをないがしろにしてしまうと、その後の発展が望めない。

一方、中学校や高等学校での基礎基本は、論理的な表現能力に集約される。論理的思考力を鍛えて、その実践としての表現力を高めることが大切だ。

表現能力は、話すこと、書くことを訓練すればいい。しかし、論理的思考力の訓練となると、難物である。
論理は、物事を順序立てて考えること、問題をねばり強く丁寧に考えることだ。
これは結構、辛いものである。

多くのフランス映画に登場する少年少女が、あまりに多弁でかつ理屈っぽいことに驚く。日本の同年代の子どもたちは、その逆である。まず、会話が少ない。

試みに、たとえばパリの街角のカフェの椅子に腰をかけて、道行く若者を眺めるといい。通りを過ぎていく人々のその中に、明らかに一種異様な一団を見かけることがあるだろう。
それは日本人の学生(20代の社会人も含む)とおぼしき女性達である。まるで幼い子どもが、海千山千のカジノに迷い込んだようにも思える。乳飲み子が這っているみたいなのである。
この差は「言葉による論理教育の欠如」に、あるのではないか。

本の学校教育は、「話すこと」の訓練が不足している。
議題について、話さない、話せない。子どもの頭の中には、いくつかのアイデアはあるのだろうが、言葉にして説明することが下手なのである。
話そうとしないし、まれに話すにしても、要領を得ない。しどろもどろである。

子どもたちは、意見を持ってないわけではない。
むしろ逆で、多くの発想と、それを実現させようとする意欲とを持っている。
しかしながら、言葉が出ない。これはどういうことだろう。
もちろん、語るべき中身がなにもないのに、ぺらぺらと空論を叫ばれても困る。それでは、ポストモダンが売り物のタレント大学教員連中と同じになってしまう。

何年か前に、アメリカの高校生の授業を見たことがある。生徒達は、我も我もと発言する。一見、雑然としているようだが、スムーズで、うるさい感じがしない。
他人の意見はよく聞いて、その発言を土台として、自分の発言を展開する。うまいものである。
授業後、ある高校生が言った。「アメリカのような多民族国家では、言葉がすべてなんです。黙っていても分かり合えるはずがありません。ことばで、説明しなければなりません。それに、話さなければ、 その場にいないことと同じなんです。私はここにいるんです、という証明は、何かを相手に向かって話した、ということと同じなんです。」

ある映画(エリック・ロメール 
L'Ami de mon amie』友達の恋人は友達)で、こんな場面があったように記憶している。

主人公の女性(A)が、その友達の女性(B)と、Aが密かに心を寄せている男性(C)とカフェでお茶を飲む。三人とも二十代半ばである。Bは、AがCを好きなことを知っているので、二人の関係がうまくいくようにとりもつ。
会話は活発に進む。BもCも、如才無く話す。Aは、あまり話さない。
Cが帰った後、Aは、泣きじゃくって、Bにこう言う。
「私は失敗した。Cに嫌われたに決まっている。だって、あまり話さなかったもの。
頭が悪いんじゃないかって思われたにきまっている。あのくらいしか話せなかったのだもの。」