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ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ (サブ倉庫)

学校はすぐに大騒ぎする件、及び、教員が「家庭と連携する」理由。

学校のから騒ぎ

かつてエイズがマスコミで大々的に取り上げられたとき。
一部の教員達が興奮して、明日にでも全国の学校の児童生徒はエイズ患者だらけになる。保健室ではどう対応したらいいのか、エイズの同級生とどんな遊びが安全か等々が、まじめに論議された。

今度は、新型肺炎がマスコミで話題になると、学校で全員にマスクを着用させようとか、風邪気味の子供への対応はどうするのかとか、実に荒唐無稽としか言いようのない意見がまかり通った。
大げさに言って騒げば騒ぐほど、教員は「私は子供を大切にしていますよ」と宣伝できる。職員室の窓から、賛成の大合唱が聞こえる。

こうして、またもや幼稚な議論が延々と続き、その挙げ句、無駄な「対応策」が決定される。
これらの茶番は、責任の所在がいつも曖昧な公教育の体質が影響している。
なんとなく無難なこと、良さそうなことには、正義の味方よろしく、「お議論」するだけで、事実を踏み込んで検討しない。せいぜい新聞の受け売りか、情緒的バラエティ「報道」番組のキャスターの口まねをして、嬉しそうである。

「子供の命を守る」という言葉が、「良心的な」教員の口から出てくる。
これは保護者の受けをねらったパフォーマンスにすぎない。
私たちが住んでいる日本の都市町村は、湾岸戦争当時のイラクではない。安全なものである。

自分は安全地帯に身を置いて、テレビ画面の向こうの危険を語ることほど、愉快なことはない。偽善と甘えとは双子の兄弟だ。親は学校に甘える。その甘えに乗じて、教員も甘やかす。お互い様なのである。

家庭には家庭の領分があり、学校には学校の領分がある。それをはっきりさせて、責任を取る部分にだけ責任を取るのが筋である。
「家庭と学校とが連携する」は、聞こえは良いが、責任の所在を不明にし、判断を鈍らせる。

戦後から、今日まで、何事も曖昧にしていた方が、双方にとって都合がよかった。
教育現場で、子ども達に各種の政治的刷り込みをするためには、教員が、児童生徒の家庭に入り込みやすい雰囲気を醸成する必要があった。これは、中国や朝鮮の対日作戦、ソ連共産党の基本的な作戦の一つだった。教員を洗脳すれば、子供を、その親をも、洗脳できる。共産主義の教科書に特大特筆してある。

だから、教員には、教職員組合を通じて、「家庭に入れ」という指導がなされた。これは社会主義革命お得意の「ヴ・ナロード(人民の中へ)」の焼き直しである。

生来がお人好しで、幅広い教養があるわけでもない教員達は、単純にこの作戦にひっかかった。思想洗脳の先兵、あるいは利用されやすい雑兵としての役目とも知らずに、下賤なヒーロイズムに突き動かされて、家庭に入り込もうとした。
それが形を変えつつ、今もしぶとく残っているのが、「家庭との連携」という題目である。

ところが、現在は子どもの家庭も複雑であるし、豊かにもなってきたので、教員が簡単に家庭に入り込めない。また、入り込もうとする教員も少なくなった。
教員組合の衰退の兆しでもあった。教員への世間の尊敬もなくなった。こんなことでは、家庭に入り込めるわけがない。
それはそれで、日本のためには幸いである。