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ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ (サブ倉庫)

国語を軽く見て、国滅ぶ。英語で考えることができるのか。

国語学習


知的活動の源泉は、言葉である。
言葉で考えて、言葉で表現する。
日本人ならば、日本語・国語が知力の土台である。

国語が基本にあって、外国語なり数学なりの能力が伸びるのであって、その逆は、あり得ない。それでもあり得るのは、天才の域になるので、ここでは論じない。

気になるのは、国語ができる子どもの多くは、どちらかといえば、こつこつ派が少ない。彼らの多くは、他の教科を熱心に学習しない。全体としては、国語の得意な子どもの成績が伸び悩んでいることである。はっきり言えば、不勉強なくせに読書好きで屁理屈の立つ子どもが多い。
これは国語が才能によるところが多いからである。

算数・数学ができる子と、英語ができる子は、重なることが多い。
まじめに時間をかけて学習する癖がついているからで、この二教科は、両方とも勉強にかけた時間と実力の向上とが、比例する。頭の良し悪しとは、関係ない。
一方、国語は難しいレベルになると、ほとんど才能がものを言う。簡単なレベルは、誰にもある程度できるので、差がつかない。

たとえば、高校の授業では、国語の得点を伸ばすことがもっとも難しい。
数学や英語は、結局、努力すればなんとかなる。
国語は長い間の蓄積というか、読書量というか、遺伝形質というか。
要するに付け焼きが通用しない。少々の時間をかけたくらいでは、成績が急変することなどあり得ない。
しかも国語の授業は、方法として確立していない(他教科が確立しているというわけではない。だが、国語に比べると、何をどうするべきか、ということが明確である)。
また、国語科でつけるべき学力へのイメージが、教員によって違いすぎる。授業技術や児童生徒に与える効果が、担当教員によって天と地との開きがある。
何を、どのように、どの程度まで、学習させなければならないかを明確にしなければ、効果的な授業が成り立たない。

 


 さて、日本は今もこれからも、国語を軽んじて、斜陽のアメリカ語を重視する政策をとるという。


これだけでも、現政府は売国奴の集まりだと思われても、仕方がない。文科省も財界も、ともに日本亡国の輩と非難されても、仕方がない。