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ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ (サブ倉庫)

学校の掃除をさせる愚。教員は躾に口出しをしてはいけない。


子どもの躾にどこまで学校は口を出すのか。
教員の間でも迷っている節がある。


まず授業中の児童生徒の態度に関しては、指導者である教員が絶対的に指導権限を持つ。
授業が成立しないほどの悪い態度の児童生徒がいたら、教員の判断で、対処するしかない。だから、授業成立の範囲内で、躾をするのである。

ところが、小学校の低学年の担任教員は、子どもの生活全般にわたって、躾をしたがる。学校教育の範囲を、無限に広げようとする人が多い。


というのも、教える内容が基礎の基礎なので、躾にまで手を広げやすいことから、本来は親がしなければならない生活習慣や躾を、お節介にも学校でしようとする。

これはまずいやり方だ。心臓手術の経験がないくせに胸部を深くまで切り開くようなものである。後々のことが、わかってない。

これが高じると、「子どもの生きる力」だの、「人として生きる道」だの、まるで新興宗教の教祖のようなことを口走る教員が出てくる。かけ算九九すら、まともに教えることができないでいるのに、言うことだけは哲学者である。こんな勘違いが一番困る。

もっと、地道な仕事をすればいいのである。地面に立った発言をしてほしいのである。

教員は、傲慢になりやすい。これは、普段から子どもの評価に余念がないからで、他人の評価をすると、なんだか、自分が偉くなったような気になってくる。
それがそうでないことぐらい、企業に勤めている人間はみな知っている。
AあるいはBが、私を評定できる立場にあるのは、立場の差である、上司
への取り入り方の違いである。入社年齢の差である。あるいは、強力なコネの力である。
もっとはっきり言えば、たまたまである。

公立校の教員は、なまじ公務員であるだけに、ベテランですら、いい加減な理想論を、平気でおっしゃる。
現実の競争の厳しさを知らないからで、競争がないと、それに変わるものを無理にでも探し出す。困ったことである。

話は躾に戻るが、「給食指導」「掃除指導」というのが、戦後教育の最大の過ちである。おかげで、学校教育の範囲があやふやになった。あんなことに、学校は手を出してはいけない。家庭の領分である。
公教育が、衣食住の「食」にまで、関係すると、親は甘える。挙げ句の果てに、公共物である校舎の掃除まで、子どもにさせる。
いったい、世界中の学校で、児童生徒が、学校を掃除する国がどれほどあるのだろう。
掃除をしろと教えるのが、学校教育の中身なのか、掃除のやり方くらい、親が教えることである。

 
掃除は必要な行為である。だが、児童生徒に、当前のように、学校を掃除させるのは、いかがなものか。どうしてもやりたいのなら、またはやらせたいのなら、学業に時間外に、ボランティアでやったらどうか。
本来は外部に委託して、掃除させるのが筋である。
家庭科で掃除のやり方を教えるのは、まあ仕方がないとしても、それを毎日学校でやる必要はないのである。サンドイッチの作り方を料理実習でやったからといって、毎日、学校の家庭科室で作り続けるのだろうか。

以上は、大方には、にわかには理解いただけないだろう。ゆっくり考えてほしい。
そういえば、「掃除指導」を道徳教育と勘違いしている某国立大学長がいた。あの歳でも、ああいう勘違いがある。現場を知らないのである。あるいは、傲慢である。
世間もそれを許す。道徳の根本に宗教的情操がないと、藁でもすがるように、ああなってしまう。愚かなことである。