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ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ (サブ倉庫)

つまらない研究会と、報告書。英語と日本語、結局どちらを選ぶのか。


ある教員が言うことには。

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研究会に出た。研究発表とはなんとつまらないものであろうか。
何のために、何を、どのようにしたら、どうなった、これだけをかいつまんで言えばよいものを、言わない。研究というほどの研究でないからだろう、発表者も聴衆もそれを承知で、熱心である。
急に話は変わって。
アメリカ映画はおもしろい。
たとえば警察映画など、事件が起こるたびに、警官が使う「報告書」ということばが頻出する。実にこまめに、詳細な報告書を書いている。何かを第三者に説明するために、文章を書くことが、よく訓練され、また負担でもないらしいのである。
先日も、FBI職員の活劇ものを見た。女主人公は、毎晩、自分の部屋で、その日の出来事、問題点、推理等をコンピューターに打ち込む。徐々に事件の全貌が現れる、といったほどの筋であるが、上司が主人公に「報告書を出せ」と催促する場面が何度か出てくる。

ことばの重みが、日本語と英語とでは、若干違うようだ。
日本語を軽んじているのではない。
日本語は、単語に多くの荷物を背負わせすぎている。英語では、単語の積み荷は、林檎なら林檎ではっきりしていて、しかも少ない。ひとつの篭に蜜柑や葡萄や西瓜を詰め込まない。
日本語の文の意味は広がりやすく、英文は狭まりやすい。原因は、漢字かな混じり文だからである。

敗戦後、志賀直哉は、日本語をやめて、すべてフランス語にしたらよかろう、と書いた。あれなども負け戦のショックや、耄碌した、というようなことではない。長年、文章で苦労してきたその挙げ句の発言であったのだろう。
日本語を他の言語に変えることは、論外だが、日本語の抱えている難しい問題は、今も解決していない。

漢字の持つ意味の幅が広いことは、単語を選ぶ苦労を少なくする。曖昧でも許される。
まんざら悪いことでもないだろうが、事柄を表現するのに、ことばへの甘えが出てくるのは仕方がない。しかも、日本は世界でもめずらしい単一民族国家である。日本中、どこに行っても日本語が通じる。簡単に通じるから、言葉を厳密に扱わなくなる。
どうせ、同じ日本人だ、わかってくれよ、というわけである。言葉によって、そして言葉によってのみ、考えや気持ちを伝え合わなければならない他国と、大きな違いである。

英語は、現在の世界共通語であるらしい。その理由も、なんとなく頷ける。
単語の内包する意味が、浅く単純である。浅薄である。
漢字の持つ、意味の多様さと奥行の深さは、今後も、決して日本語を世界共通語にしないだろう。

それは、日本人にとって、喜ばしいことなのか、悲しむべきことなのか。