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ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ (サブ倉庫)

百マス計算、テレビ宣伝。マスコミに誘導される教育関係者は、不勉強である。


何年か前、百マス計算だとかで、テレビが騒いだ。新聞雑誌、挙げ句にはこの機に乗じて一儲をねらった出版社まで巻き込んで、もともと昔からあった反復習熟学習を、ことさらに新しい教育方法のように喧伝した。
テレビで紹介された某教員の方法は、すでに日本全国の教員が長年営々と続けていたことであって、めずらしいことではない。指導の一工夫として当然すぎて、今さら取り上げるほどのことでもない。にもかかわらず、テレビ番組では注目すべきものとして報道され、妙なインパクトがあって、いかにも新しい教育技術のように喧伝された。


ゆとり教育の失敗が明らかになりつつある頃に、放映されたので、宣伝効果が増幅した。視聴者は、例によって、番組制作者にしてやられたのである。
各地の教育委員会の「お歴々」も、さして深い考えもなく、テレビに夢中らしく、手放しで歓迎した。

テレビにかじりついてばかりいないで、少しは本を読め。自分の頭で考えたらどうか。

百マス計算で名を売った陰山某は、子どもに文章を暗唱させるのに、こともあろうに日本国憲法前文を選んでいる。まともな日本語とも言えないものを、子どもに暗唱させるなんてどうかしている。
憲法なら間違いなかろうと考えたのだろうが、その文章感覚を疑う。


暗唱は古典に限る。
枕方丈徒然平家が筆頭で、次は百人一首で、とどめである。現代文では、鴎外を以て範として、他に、一葉敦直哉までだろう。
以上は、
三十年以上前から、古典の暗唱学習を徹底して、学力を向上させた教員の言である。公立小学校の学級でも、このくらいの実践は可能なのである。
何を読ませるかについて、名文とそうでないものとの判断ができないようでは、教育に暗唱が必要云々と言う資格はない。

そういえば、音読や暗唱に関して、「声に出して読みたい」とかの、短文を寄せ集めた本が売れたこともあった。安っぽいガイドブック風情のものが、今さら注目されることが、いかにも恥ずかしい。
原文に当たればいいことである。読書の中身、教材の中身まで、誰かに教えてもらわなければならないのか。だったら、とことん、そうしてもらえ。


私はこれをハウツー本世代「ぴあ世代」と呼ぶことにしている。
自分で考えようとせずに、何でもお手軽に、他人様から教えてもらいたいのである。これは、ニュースキャスターの口真似が大好きな性質と同じ根である。
上記の「百マス」にしろ「声に出して」云々にしろ、みんな古人の発想の口真似である。オリジナリテも構想力もない。

小中高の教壇も経験もない、大学教員ごときが、暇にまかせて書きとばしたものを、現場教員がわざわざ買って読むほどのことはないのである。笑って、放っておけ。

そう言えば、某テレビ局の子供テレビニュース云々に関係していた職員が、なんでも屋となって解説している本も、よく売れているらしい。
自分で学ぼうとせず、お手軽に解説してほしいのである。まさに、テレビ思考である。

あれもこれも、出版社の罠である。古人は、出版は虚業、いかさまである、と喝破した。。
儲けるためなら、なんでもする。アイデアが勝負である。ファッション雑誌アンアンの真似からはじまって、すぐにアンアンを凌いだノンノの例もある。恥も外聞もない。


話が長くなったが、教育関係の出版社では、長年、小学館明治図書が競っていたと聞く。学研も参入した。文芸春秋その他の社も、負けてはいない。
明治図書は法則化運動とかで、いちどきに稼いだが、今は下火らしい。小学館は、マンガや雑誌で稼いでいる。
出版社とマスコミとは、常に話題を捜す。捜すに事欠いて、無理矢理作る。

教育はもっと地味で忍耐強いものである。流行に乗らずに、地道に授業をしろ。