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ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ (サブ倉庫)

読み書き計算の宿題は必要なのか。

宿題


教員が、宿題をどんどん出すと、その教員はさも熱心なように見える。宿題がありさえすれば安心する親も多い。
そこで、愚にもつかない内容の宿題を、平気で出す教員が後を絶たない。
これは、教員が得意とする「時間つぶし作戦」である。

時間つぶしの宿題とはどんな宿題か。具体的には言いにくい。その子どもの学力と学級の学習進度によって変わるからだ。

出された宿題に、教員のどんな意図が託されているか、親は、我が子とともに、それを探るのは、意味のある「宿題」だ。


教員は、宿題を出すからには、子どもにちゃんとやらせなければならない。
学級の過半数が、さぼって未提出であるような課題は、宿題とは言えない。
子どもの過半数が宿題をやってこない学級では、そもそも宿題を出しているとは言えないし、宿題云々の水準にすら達していない学級である。



とすると、宿題を出してる学級は、子どもが宿題を形だけでも何とかやってきているということになる。子どもの過半数は、宿題に対して、一応やらなくてはならないという意識を持っている学級ということになる。わずかにポイントは上がるわけだ。
であるならば、宿題のない学級よりは、宿題のある学級の方がいいということになりそうである。

だが、違う。


繰り返すようだが、むしろない方がまし、といったつまらない宿題が多すぎるのだ。子どもに時間を無為に過ごさせ、子どもの集中力を奪うような宿題が存在する。 こんな宿題は出さない方がましだ。出さない方がむしろ幸せという無駄な宿題は、宿題の8割を占める。


宿題をすることによって、子どもの学力が上がらなければ何にもならない。

学校の教員が出す宿題には二つ意味がある。
一つには、その日の学習内容の定着をはかるためである。
二つには、家庭で一定時間は学習するという習慣をつけさせるためである。

宿題に後者の意味を持たせたのは、日本独自の発案で、日本の教員が熱心(または、おせっかい)な証拠である。
欧米では宿題は、第一の意味でしか出さない。アメリカやイギリスの教員は(私の経験によるので、統計を見たわけではない)、そもそもが、家庭で学級の子どもがどのような勉強をしようと、子どもの勝手だと考える。
伸びる子は伸びるし、怠ける子は脱落する。
これは仕方がないことだし、むしろその方が良いというニュアンスがある。まったくもって「自由」な国である。子どものときから、「立派」な個人だ。
その子の人生だ。その子自身が、自分で責任をとるのだから、なんとでもやってくれ。



一方、日本では、どうでもこうでも、全員を引き上げようとする。
子どもにとってはいい迷惑である。勉強したくないのに、どうしてそれほど勉強しなくちゃいけないの。

日本の教員は、学級の全員がやってくる、やってこれる、という内容が、宿題の前提であると考えている。だから、宿題の中身は、吟味して出す(はずである)。
吟味しすぎて、単純なものになりがちである。それでいい。宿題は、むしろ通り一遍でオーソドックスなものがいい。ややこしい宿題を出すような教員は、力が足りないのである。

望ましい宿題は、
たとえば小学生なら、読み書き計算である。これに関する宿題なら歓迎だ。これ以外の宿題は、まず間違いなく時間の無駄である。
これを極端だと、おっしゃるか。では聞くが、計算をノートにきちんと解き、漢字をノートに書き写し、名文を朗読し暗唱する。これ以外にどんなすばらしい宿題があるというのか。あるなら、教えてくれ。