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ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ (サブ倉庫)

これでいいのか国語教科書の文章

国語教科書


義務教育で使用する国語教科書の文章がひどい。ひどすぎる。
気品、リズム、内容ともに駄文の範疇に入る物が平気で載っている。
試みに音読してご覧なさい。聞くに耐えない。


十年前より二十年前、二十年前よりも三十年前。教科書は古いものほどちゃんとした文章が載っている。

こんなにも文章がいいかげんになり、分からなくなり、文章の質が等閑にされ出したのは、いつの頃からだろう。
世間で作家と呼ばれる連中のだれもかれもが、岩波調の翻訳崩しになってからだろうか。
大江健三郎のように、サルトルの下手な翻訳のような分かりにくい文章を書いていても、一応の作家として認めらた頃からだろうか。
日本語は破壊されたのである。


学校現場で、採択されるには、教員になじみの作品を載せるに限る。このように教科書会社は考えた。今の教科書の質の悪さは、そのまま国語科教員の質の悪さに通じる。

笑えるではないか。
コンビニで、そこら中並べてある漫画雑誌の付録のような、文章感覚の鈍い、未熟な、評価の定まらない、品のない、リズムのない、およそ思想の片鱗だにすらない、作文とも呼べない代物を、時間に追われてかろうじて吐き出したような文章状のゲルのような文章。それを、教科書の中に、子どもが学ぶべき文章として載せているのである。
文化は軽蔑され貶められたのである。

教科書採択制度にも問題がある。教科書の選択を、教育事務所や現場の教員任せにしたのがそもそも大失敗である。
歴史と伝統を無視した戦後教育で育った人々に、国語の伝統を受け継いだ文章作品が選べるわけがない。そもそも文章感覚自体を持ってないし、育ってないし、必要とも思ってない人々である。

教科書会社は、今風の軽い文章ばかりを載せたがった。そして、そのような教科書は、目論見どおり、次々と採択された。
露伴一葉漱石鴎外直哉敦近くは由紀夫。これらが教科書に掲載可能な文章の最低限のラインである。
以前は、少なくとも鴎外直哉は小学校で習った覚えがある。
平家徒然も教科書に載っていたし、当然のように暗記した覚えがある。

今の国語教科書にあふれているリズムもなければ内容もない粕漬けのような文章を読ませても、子どもが読書好きになるわけがない。
時間の無駄どころか、むしろ害ばかりである。たまに読んでいると思えば、近頃流行の底の浅い翻訳小説か、タレントの語り下ろしのような紛い物だ。
日本語の名文は、どこへ行った。