ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

私立中学高校の失敗。スーパーグローバルハイスクール、スーパーグローバル大学、すごいね。

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某教員が、嘆息して曰くことには。
地方では断トツに入学困難な私立中高一貫校へ、多くの最優秀(小学校では)な子供を何人も入学させたが、その後が、意外にも伸びていない。旧帝大系及び有名私大医学部に、学業優秀な子供が進学する傾向が強いが、彼の予想したような子供が、その通りになっていない。
優秀な子供を入学させているのに、中学高校の6年間、教員が熱心に指導をしていなかったことの証左でなかろうか。それどころか、当該子供の勉強意欲を消失させ、学力低下を強いたのではないかという疑義である。

これについて、私の意見はこうである。
有名私立中高等学校の教員は、一般にレベルが低い。
公立中学校や公立高校の教員よりも、授業が下手で、努力をせず、安直で、漫然と日々を過ごし、教材研究もほとんどしない人が多い。
にもかかわらず、有名私立高校の在校生が、完全に沈没していないのは、すでに子供自身に勉強する習慣が身についており、自学自習をするからである。
中学や高校を、私立に行かせることは、以前も今もこれからも、大きな賭けであり、勝率は非常に低い。どころか、破産の恐れがある。

 

私立学校の将来は、一言でいえば、暗い。とはいえ、国公立が、うんと良いわけではない。大学を見ればわかるだろう。国立私立を問わず、日本の大学の99パーセントは無能で学力不足の教員で占拠されている。教員間の競争がなく、厳しい外部の批判にさらされていない。

何を勘違いしたのか、間抜けな文科省は、スーパーグローバル大学とかを、ぶち上げた。もう破れかぶれの出鱈目である。
そもそも、日本のほとんどの大学は、世界水準からすると、「まっとうな大学」と認識されていない。であるのに、スーパーグローバルとは、増上慢どころか冗談にもならない。世界の笑いものである。
日本国内では、旧帝大だの有名私大だのと声高に言ったところで、それを認めるのは、日本人だけである。予備校のスタッフと、子供の親と、できない坊主の当人だけである。

井の中の蛙よろしく、仲間内だけで手を取り合って、喜んでいればいいものを、外国語で授業をするだの、留学生を大量に受け入れるだの、ついでに外人教員を増やすだの、バカも休み休み言え。
どうせ格好だけの予算分捕りごっこになることは目に見えている。学習効果どころか、ますます学生が低学力となり、外国旅行万歳の安楽教員が増え、英語屋商売人が喜ぶだけである。

駅弁大学のつけが回ってきたのである。必要もないのに、親の欲目と大学ビジネスと文科省のポスト争奪戦の欲とで、むやみに大学をでっちあげすぎた。

日本には、大学は不要である。寺子屋や各種専門学校で、必要にして十分である。
どうしても大学を制度化したいのなら、理・工・医学の高水準な学校を、数校設置すればいいのである。
どうしても「グローバル」な大学で学びたいのなら、大好きな英語とやらを駆使して、オックスブリッジなり、アイビー8なりに行けばいいだろう。

 

英語を小中学校の必須科目から除外。外国語オタクは、がんばれ。

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学校教育での英語は全然役に立たないどころか、教養としての語学ともいえない代物である。大切であるべき学校の授業時間を、子供に無為に過ごさせるための悪戯である。

現代では、英語は、日本人にとって何ら必要がないものだと、先頃、述べた。英語がなくても一向にかまわない。日本では、当然ながら、日本語だけで、大部分の仕事は話が通じる。一体全体、文明開化ではあるまいに、どうして英語なんだろう。
金儲けなら、中国語やスペイン語アラビア語の方がよほど有利ではないのか。
英語なんて、だらだら時間をかけて、今さら子供に、強制して習わせるほどのものではない。

英語を重んじようとする傾向は、反面、母国語である日本語を軽んずることになる。
授業で、日本語の文章の音読がめっぽう少なくなった。
過日、某高校の国語の授業をいくつか連続して見る機会があったが、どういうわけだか、どの教員も、授業で子供に音読させない。のみならず、教員が範読すらしないのである。これでは、国語科の授業とは言えない。

授業は、特に、国語科の授業は、日本語で書かれたテキストを日本語で音読することと同義である。高校生でもそうである。小中学生は言うまでもない。
本の読み解き方を教えることが肝要で、学問は、読書に極まるのである。
音読が授業の根幹であることは、古今東西、太古の昔から、学校の役目の大きな、ほとんど唯一の原理である。

英語を学ぶことは、当然ながら、英米国への憧憬と隷属とを育てることになる。
考えてもみよ、なぜに、英語なのか。なぜに「外国語」なのか。
日本はすでに日本で完結している。日本語は強い、強くあるべきである。
日本語を学ぶのは、相手の方であって、日本人が米英人の言語に合わせてやる必要は、毛頭ない。あるのは、外人相手の職種の人々のはずで、それはそれ、勝手にやらせろ。それをまた、なんで、日本国民一般に、特に、義務教育期の児童生徒に、強制させるのだろう。

外国語オタクはどこにでもいる。そういう子供は、親が禁止したとしても、北京語なりロシア語なりアメリカ語なり、好きに学ぶだろう。話すだろう。それはそれで敵性言語ではあるまいに、勝手にやらせろ。
政府が先頭にたって、間抜けな文科省が旗を振って、政財界の犬よろしく、日本国民の教育内容に、外国礼賛の英語を拡大強制させることが、けしからんのである。

何度でもいうが、日本は大国である。核も持たず、米国製翻訳憲法を大切にし、細かい仕事に優れ、熱しやすく、騙されやすく、生来優しく、外国人を愛し、隣国からの非難中傷にもメゲズ、無理難題をも莞爾として、お受け申し上げさせていただく。
これが大国と言わずして、どこに大国があるのだろうか。

そんな大国の国民が、日本語をないがしろにし、逆に、英語を過大評価し、有難がるのである。
馬鹿馬鹿しくって、お話にならない。
どうせ、何百時間、何千時間いやいや、何万時間をかけたところで、無駄の骨頂、モノになるはずがない。
全然、生活に必要のない言語を、お遊びに真似たところで、それは安っぽい趣味である。生きた言語の使い手となるわけがない。
英語を、義務教育期の必須科目から即刻廃止することが、「必須」である。

 

英語バカの量産。外国語礼賛は、いまどきの文明開化か、核弾頭つき蒸気船が怖いのか。

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文科省のやることは常に間違う。
ゆとり教育で大失敗をし、今度は、英語教育万歳で、大失敗をした。坂道を転がり落ちる先は、闇である。
英語業者だけは、笑いが止まらない。

歴史伝統を軽んずるとこうなる。
口先ばかりの「改定のポイント」なるパンフレットを出して、裁断ばらばらの辻褄を合わせようとする。
やたら体言止めが多く、気色が悪い。汚らしい文章で、見てはいられない。
各学校は、「カリキュラム・マネジメントの確立」を、するんだそうだ。簡潔に日本語で書け、日本語で。

『各学校においては,児童や学校,地域の実態を適切に把握し,教育の目的や目標の実現に必要な教育の内容等を教科等横断的な視点で組み立てていくこと,教育課程の実施状況を評価してその改善を図っていくこと,教育課程の実施に必要な人的又は物的な体制を確保するとともにその改善を図っていくことなどを通して,教育課程に基づき組織的かつ計画的に各学校の教育活動の質の向上を図っていくこと(以下「カリキュラム・マネジメント」という。)に努めるものとする』(平成29年3月公示 小学校学習指導要領 1章第1の4)
などと、だらだら書いている。

便利だから、和製英語でいいじゃないか、ということだろう。
言葉が多くなれば、内容は薄くなる。あってもなくても、同じになる。みんなハッピーである。

日本のように、国家の歴史が長く、洗練された言語があり、人種がほぼ単一で、人心穏健和気藹々という風の国柄では、日本語で考えて、日本語を話す。すべてが日本語で万事幸福なのである。日本語だけで生活全般、外国諸事情、学習万端、なんら不便がない。そのこと誰よりも知っているのが、私たち日本国民ひとり一人である。日本人にとって、英語に限らず、外国語なんて、全然、必要ないのである。
必要があるのは、商売人または外国語利用で職を得ている人たちで、それはそれ、勝手に何語でも話すがよかろう。
英語学習が失敗続きなのは、英語が日本で暮らすには、何の役にも立たないこと、なんらの恩恵がないことの証左である。

なのに、焦った文科省は、するに事欠いて、教科としての英語を、ますます早期に始めさせようとする。

無駄どころか、害のみ多くて益は無い。英語関連の業者を儲けさせるだけで、または、能無し英語教員をのさばらせるだけである。子供やその保護者こそ、いい迷惑である。

一体全体、何を今更、英語を学ばせようなんて、福沢諭吉の時代じゃあるまいに、文明開化のベルがなっているのか。核弾頭つきの蒸気船が怖いのか。笑うしかない。

一部の目的を持った連中はともかく、学校教育期の日本人学習者にとって、英語学習はこの際、全面的に中止してよろしいのではないか。
他にも学ぶべきことがいくらでもあろうに。
アメリカ人の幼児が話すようなことを、十代二十代の日本人が、あくせく勉強するなんて、どうかしている。その挙句、なんにもならないことは、みなさん、すでによくご存じだろう。
すべからく、英語学習、外国語学習は、希望者のみの選択科目とすればいいのである。あんなもの、少なくとも義務教育からは、さっさと追い出したら如何か。

 

 

 

政治と教育は、別物とお思いか? オリンピックで転んで、泣く子供。

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以下は、知人の話である。


二十代から三十代の教員たちは、政治の話、特に近隣諸国と日本政府との外交について、全然興味がないようだ。
中国韓国台湾云々の話題は、どんな会合でも、場違いとなる。
どうも、外交だの憲法だの、チャイナ・コリアだのは、苦手というか、嫌であるらしい。そのくせ、オリンピックとやらには、すぐに盛り上がる。

あのですねえ、教育とは、政治なんですよ。
学校教育は、良きにせよ悪きにせよ、その社会体制を維持するために、次の世代を洗脳することなんです。
文化伝統の持続とは、国家意識を育てることなんです。否定しても無駄。そうでないと、国家・民族は成り立ちません。世界中、どこでもそうです。
見て見ぬふりをしたいのは、日本国民だけです。というより、そう仕向けられているのか知りませんが、仕向けられて、素直に応じるのなら、どちらにしても同じことです。

ですからね、親も教員も、もっともっと、政治的になった方がいいんです。
ここで言う、政治的とは、旗を持って「原発反対」なんて、大通りを練り歩くことではありません。「日本という独立国家を、強く意識する」と言うことなのです。

チャイナは、世界制覇をたくらんでいます。こんなことは世界中の常識です。制覇というと、ハリウッド映画っぽくなりますが、要は、大中華圏の達成で、国が大きく人も多ければ、そのくらいのことは自然に思いつきます。そうでないと、国家が成り立ちません、民族が存続しません。そして、人は存続することを本能に持つものです。男が死ぬとき、体温が瞬間に上がり、逸物が屹立するというじゃありませんか。種を残そうという本能です。

チャイナは、コリアは手中に収めました。台湾もいずれ征服します。次は日本です。
それがいつ実現するかはともかく、こんなことを意識するか、それとも忘れたふりをするか、それが教育では、大切なんです。
授業でそう言えというのではありません。教員自身、保護者自身が、心の底に覚悟を持てということです。

言っても、無駄ですかね。奴隷状態にならないと、得心がいかないのか? それもまた、やむを得ないということでしょうか。

何やかや言っても、日本は平和で太平楽です。雪の朝に、町のそこかしこで、凍死している人を見ません。橋の下に乞食がいません。
飢えて、生ごみ回収の日に、ゴミ袋を漁っている人を見ません。
毎晩盛り場では、勤め帰りの人々が大笑いをしています。貧乏学生の癖に、最先端のファッションで歩いています。職業安定所に、高級外車で乗り付ける人がいます。

それは悪いことではないです。むしろ善です。日本人の勤勉さが生んだ、不思議ワールドです。

しかし、日本以外では全然違う。弱肉強食です。子供の時から、学業成績と収入とが一致すると考えています。
ハーバードの某教員ですが、彼女が11歳の時に交通事故で頭を打った。そのあとの知能検査で、数値が下がった。心底、悩んだそうです。頭が悪くなったのではないかと、将来金持ちにもなれない、掃除人になるしかないかと。
アメリカ人の11歳の優等生は、すでにそんなことを考えています。嫌なものです。でもそれが、アメリカです。


話は変わりますが、日本の子どもは、小学生のときから、近隣諸国に日本は悪いことをしてきた、迷惑をかけた。だからお詫びとともに、末永く仲良くしなければいけない、と教えられています。
「三つ子の魂百まで」で、この刷り込みは、その後の日本人の母国への意識と外交感覚とを、ずーと支配してきました。

チャイナが核ミサイルの照準を、ぴったり日本へ合わせている。北朝鮮もそうしている。だったら、日本も対抗措置をとるべきであるのに、その発想がない。
長年、チャイナに日本国民の血税をくれてやっているのに、それをやる方も、受け取る中国人の方も、当然だと考えています。
 
日本の安全保障を侵害するような問題が起こる度に、平和の平和の大合唱です。千代紙で鶴を折ったり、あるいは、ディズニーの「世界は一つ」なんてアニメソングを声を揃えて歌わせている。

「お目出度い」を通り越して、間抜けです。

あれもこれも、「ご立派」な学校教育の成果でしょうか。
日本の教育を、小学校から大学まで、根元から、変えなければ、ますます「お目出度い大人」が、今後も、拡大再生産されるでしょう。
日本国土が、チャイナかロシアか、その他の国によって、蹂躙され、他国の奴隷であることが、誰の目にも明らかになる状況まで、続くことでしょう。

ーーー
以上のような話が、以前は、たまに聞くことができた。
しかし、平成30年春現在、場末の居酒屋ですら、聞くことができなくなった。
その代わり、相撲取りがどうしただの、雪の中で飛んだり滑ったりだのの話が、専らである。

 

 

税も物価も高くなるのに、給料が低い。スマホピコピコな女子高生に読書を教える。

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物価はどんどん上がっているのに、給料が上がらないどころか、下がっている。
大の大人を捕まえて、時給950円だの980円だのは、人を馬鹿にしているとしか言いようがない。
年貢としての税金は、年々増えているから、生活はますます厳しくなる。まさに、寒気である。心底、お寒い。
過日、某大企業のフレッシュマンの初任給を知って、その安さに、知人は驚いたのである。

企業は、バブルの失敗に懲りて、金を出し渋る。内部留保とかで、社内にため込んで、社員に渡すべき金を渡さない。
何十年か前の好景気に、気前よく万札をばらまいたのは、当然ことで、それだけ会社は儲かったのである。今、会社は儲かっているにもかかわらず、十分な給与を出さない。社の基礎体力をつけるためだとか、やがて必ず来る不況を乗り切る準備だとかいうが、なーに、自分さえよければいいのである。安く雇って、とことん使役して、商売敵よりも一歩先を行くことが、社是である。
それが悪い、とは言わない。どうせこの世は競争である。
競争には、安くて大量の兵隊が必要である。日本人の働き手、つまり私たちである。
日本人は文句を言わない。黙々と耐え忍ぶ。
苦は楽の種、だそうだ。現世は苦しくとも、極楽浄土が待っている。貧しくとも朗らかに、いつも微笑みを、云々。

情報操作が政府の役目である。純順で、素朴で、働き者で、お人好しな日本国民の性情を、とことん利用する。
皆さんご存知の「3S」は、セックスとスポーツとスクリーンである。自分で考えるよりも他人の意見をオウム返しに言いうだけのスマホピコピコ人間の量産である。

街を行き交う高校生や大学生や20代の人々、いや、30代も40代もそれ以上の年齢の人々も、片手に持ったスマホを覗き込んで、俯きながら歩いている。
親指で画面をなぞるのに必死である。よくもまあ、他人にぶつかったり、転んだりしないものである。
ロボットが蠢いているように見えなくもない。画面を見てなぞるだけの「目」が、歩いているようにも見える。

以上が、知人の話である。


さて、先日、近所の親子が出かけるのを見かけた。女子高校生らしき子は、スマホから目を離さない。親が何を話しかけても、うん、そう、と、上の空である。
ネットで重要な情報のやり取りをしてるのであろうか。どうせ、ゲームかラインの類だろう。または、ダジャレの動画を見ているのか。それとも、同級生の悪口の確認だろうか。

学校は、児童生徒のスマホを、今さら、禁止にできない。
十年以上も前に、某大附属小は、児童全員に携帯電話を義務付けた。親の希望である。親が通学中の我が子の居場所を、GPSで把握するためである。その時は、教員も親も、なんと便利なことよと楽観したが、子供がスマホ漬けになるとは、予想しなかった。

対抗策がないではない。

月並みだが、読書である。
学校では、日本語の指導、特に、読む技術をしっかりと教えるべきだ。
読書好きな子にするのである。ゴミを読むのではない。先人の遺産たる名著を辛抱強く読んで、考え続けるような子供を育てるのが、学校の役目である。
そのための具体的な授業方法は、多くあるが、どれも難しいものではない。
教員が、その気になれば、誰にでもできる。
そのいくつかは、すでに書いた。
また書く。

 

 

 

担任教員の当たり外れ、再び。中国共産党幹部は、最優秀らしい。

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日本人は、以前は中国が好きな人が多かったように思う。だんだん、「嫌い」が増えてきて、近頃は、どうなんだろうか。
ほんの十年ほど前までは、だれもが中国大好きで、中国語講座は花盛りだった。特に教員は中国や北京共産党政権に「愛」の感情を持つ人が多かった。
どういうわけなんだろう、不可思議である。


教員よりももっと、シナ大好き人間は、銀行及び商社マンの諸君である。
彼らのチャイナびいきは、商売相手だから、当然のようだが、その理由がおもしろい。中国人は優秀だ、と言うのだ。特に、中共幹部(中国共産党員の上層部)や企業主が最優秀だ、と言う。

いわゆる「靖国問題」にしても、北京のトップは理解しているが、地方の中堅レベルが、日本憎し、で日本の行動を批判している。北京は本音では日本と仲良くやりたいのだ、とも。

ではチャイナびいきの諸君に問う。
北京のトップがそう考えているのなら、それがすぐに末端に届くのが、共産党独裁政権の取り柄ではないのか。国土の広さや言語民族の多様を理由にしても無駄である。反対者は、例によって、殺すなり、隔離するなりすればいいことである。
居住移転の自由も認めないで、国勢調査も一度もすることもないで、思想信条、信教の自由も認めないで、なおかつ、地方の中堅勢力を、押さえることができないとおっしゃるか。
これまた奇怪な話である。

と、ここまで言うと、けんか腰になるから言わないが、どうにもこうにも、日本人のチャイナびいきは異常である。
話が「中国2千年の歴史」になると、とたんに目が潤んでくる。
何が2千年なものか。革命の度に、前政権を皆殺しにした。そんな殺戮の積み重ねが、チャイナと呼ばれる広大な地域の歴史である。信用しろ、というのが無理である。

さて、中華人民共和国では、今、猛烈な勢いで子ども達が勉強している。それに比べて日本ではどうなのかというのが、ここでの議論なのである。

シナは人口が多い、だから、それなりに優秀な頭脳の人間が多い。その連中が、慾にかられて、わき目も振らずに猛烈に勉強するとどうなるか。

日本は困ったことになる。日本の子供は勉強しない。生活に困らないから、勉強は慾からするのではない、趣味からである。あるいは、就職の準備のためである、つまり、親から言いつけられたからである。
学力競争で、日本人は中国人に負けるだろう。学力だけが、国の資産のような日本で、これは困る。

以上は、某氏の言である。私は、こういう話は、好まない。言っても無駄なことは言わぬが花で、秘するのである。秘して滅ぶのである。
私の話は、もっと卑近である。教員の仕事、特に担任と子供とである。

学級担任と、受け持たれる子供とは、まさに一期一会である。朝、挨拶して終わりじゃない。最低でも一年間、行動をともにするのである。ただ事ではない。
だから、担任教員とのつきあい方は大切だ。親も子も、担任教員も、その立場に応じての「つきあい方」がある。大学教員も同列に考えたかったが、やはり彼らは別物である 。そして別物であることを、大学教員自身が喜んでいる。だから、彼等は教員ではない。あれは趣味人であり、ある種の遊び人である。

保護者の立場からすれば、担任教員は、困った奴らである。自分で選べない。当たり外れがある。運を受け入れるしかない。

しかし、どんな担任であっても、うまく利用するやり方が、ないではない。
できるだけ効率よく担任の力を吸い取って、我が子の糧としたい。ただし、それだけのもの持っている教員に限る。
ほとんどの場合は、担任は我が子にとって悪いことの方が多い。何事も、過ぎ去ってみれば、よいことしか思い出さないから、あるいはよい方に考えなければ己が人生が辛くなるから、肯定的に思い出すのである。
しかし、あなたが、かつて過ごしてきた学校生活、その担任のほとんどは、常に「外れ」だった。そう思いたくないから、思はないようにしているだけのことである。
当たり教員と外れとの差は、エベレスト頂上と、日本海溝の底ぐらいにある。
とすれば、小学校から始まって、中学高校と、担任のほとんどは、その子供にとって、害悪の塊である。

こう書くと、驚くだろうか。何を馬鹿な、と怒るだろうか。それには及ばない。
胸に手を当てて、よーく、考えるといい。


以上は冗談である。
人生は偶然の積み重ねだから、あなたにとってこれまでの担任は「当たり」だったのだろう。きっとそうである。おめでとう。