ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

担任教員の当たり外れ、再び。中国共産党幹部は、最優秀らしい。

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日本人は、以前は中国が好きな人が多かったように思う。だんだん、「嫌い」が増えてきて、近頃は、どうなんだろうか。
ほんの十年ほど前までは、だれもが中国大好きで、中国語講座は花盛りだった。特に教員は中国や北京共産党政権に「愛」の感情を持つ人が多かった。
どういうわけなんだろう、不可思議である。


教員よりももっと、シナ大好き人間は、銀行及び商社マンの諸君である。
彼らのチャイナびいきは、商売相手だから、当然のようだが、その理由がおもしろい。中国人は優秀だ、と言うのだ。特に、中共幹部(中国共産党員の上層部)や企業主が最優秀だ、と言う。

いわゆる「靖国問題」にしても、北京のトップは理解しているが、地方の中堅レベルが、日本憎し、で日本の行動を批判している。北京は本音では日本と仲良くやりたいのだ、とも。

ではチャイナびいきの諸君に問う。
北京のトップがそう考えているのなら、それがすぐに末端に届くのが、共産党独裁政権の取り柄ではないのか。国土の広さや言語民族の多様を理由にしても無駄である。反対者は、例によって、殺すなり、隔離するなりすればいいことである。
居住移転の自由も認めないで、国勢調査も一度もすることもないで、思想信条、信教の自由も認めないで、なおかつ、地方の中堅勢力を、押さえることができないとおっしゃるか。
これまた奇怪な話である。

と、ここまで言うと、けんか腰になるから言わないが、どうにもこうにも、日本人のチャイナびいきは異常である。
話が「中国2千年の歴史」になると、とたんに目が潤んでくる。
何が2千年なものか。革命の度に、前政権を皆殺しにした。そんな殺戮の積み重ねが、チャイナと呼ばれる広大な地域の歴史である。信用しろ、というのが無理である。

さて、中華人民共和国では、今、猛烈な勢いで子ども達が勉強している。それに比べて日本ではどうなのかというのが、ここでの議論なのである。

シナは人口が多い、だから、それなりに優秀な頭脳の人間が多い。その連中が、慾にかられて、わき目も振らずに猛烈に勉強するとどうなるか。

日本は困ったことになる。日本の子供は勉強しない。生活に困らないから、勉強は慾からするのではない、趣味からである。あるいは、就職の準備のためである、つまり、親から言いつけられたからである。
学力競争で、日本人は中国人に負けるだろう。学力だけが、国の資産のような日本で、これは困る。

以上は、某氏の言である。私は、こういう話は、好まない。言っても無駄なことは言わぬが花で、秘するのである。秘して滅ぶのである。
私の話は、もっと卑近である。教員の仕事、特に担任と子供とである。

学級担任と、受け持たれる子供とは、まさに一期一会である。朝、挨拶して終わりじゃない。最低でも一年間、行動をともにするのである。ただ事ではない。
だから、担任教員とのつきあい方は大切だ。親も子も、担任教員も、その立場に応じての「つきあい方」がある。大学教員も同列に考えたかったが、やはり彼らは別物である 。そして別物であることを、大学教員自身が喜んでいる。だから、彼等は教員ではない。あれは趣味人であり、ある種の遊び人である。

保護者の立場からすれば、担任教員は、困った奴らである。自分で選べない。当たり外れがある。運を受け入れるしかない。

しかし、どんな担任であっても、うまく利用するやり方が、ないではない。
できるだけ効率よく担任の力を吸い取って、我が子の糧としたい。ただし、それだけのもの持っている教員に限る。
ほとんどの場合は、担任は我が子にとって悪いことの方が多い。何事も、過ぎ去ってみれば、よいことしか思い出さないから、あるいはよい方に考えなければ己が人生が辛くなるから、肯定的に思い出すのである。
しかし、あなたが、かつて過ごしてきた学校生活、その担任のほとんどは、常に「外れ」だった。そう思いたくないから、思はないようにしているだけのことである。
当たり教員と外れとの差は、エベレスト頂上と、日本海溝の底ぐらいにある。
とすれば、小学校から始まって、中学高校と、担任のほとんどは、その子供にとって、害悪の塊である。

こう書くと、驚くだろうか。何を馬鹿な、と怒るだろうか。それには及ばない。
胸に手を当てて、よーく、考えるといい。


以上は冗談である。
人生は偶然の積み重ねだから、あなたにとってこれまでの担任は「当たり」だったのだろう。きっとそうである。おめでとう。

 

 

 

「英語」が楽しみな小学生。英語を話す人々の世界。中国の戦略。

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ただ今のご発言、中国についてのお話でしたが、教育関係者も多く参加されていることでしょうから、老婆心ながら一言させていただきます。

「中国の長い歴史」「中国人の大きな心」のような言い方で、なにやら相手方の中国政府が、あたかも寛容であるかのようにお考えのようでありますが、中国は、共産党一党独裁政権であって、他国に対する寛容などは微塵ももってないことを自覚しておかないとひどい目にあいます。
今までも今も、中国は自由で民主的な体制をとったことが一瞬もない国です。これからも、おそらく、そうでしょう。
中国の歴史を紐解けばすぐに分かることでして、中国・チャイナに、漠然としたイメージで対処していると、危険です。
中国は、外交のうまい国で、覇権的かつ中華的思想がある上に、世界中に散らばっている華僑の経済力も大変なものがあります。
国際政治の勢力均衡の原則から見て、いずれ世界は、アメリカと中国とで二分されると予測できます。どちらの陣営に組するほうが幸せかと言うと、これはもう明らかでしょう。

しかしながら、人はそれぞれでして、たとえば新聞、出版、テレビ局等のマスコミ関係者及び小中高大学等の教員の中には、現在の日本の政治体制よりは、中国の体制がよいと考えている人がいます。
彼らは、中国による日本支配が達成された暁には、大多数の日本国民が、中国政府支配下で奴隷を強いられても、自分達の生活や権力は、中国に対するこれまでの「貢献」によって、中国政府によって評価され、したがって贅沢な暮らしと権力とがご褒美として与えられる、と期待している人もいます。

彼等のナイーブな中国観を作ったのは、戦後の日教組の貢献が大きく、この点でも、中国の作戦は完全に成功しました。
現在も、頻繁に行われる、美術館、デパート等での中国関係の催しや、NHKお得意の中国「文明」についての、情緒たっぷりで憧憬にあふれる特集、これらは、中国政府の地道な戦略の一つです。日本人のお仲間は、新聞テレビ政財界、特に議員連中に多数いますから、彼らを手先に使って、やりたい放題です。もちろん、そのような行為を否定するつもりはありませんし、この程度の国家戦略すら持たない国は、ひょっとしたら日本だけかもしれませんので、あらためて自分たちのナイーブな呑気さと甘さとを、反省する契機としたいものです。

なお、付け加えるならば、中国政府は、みなさんの思想傾向をリサーチしています。誰がどのような意見を言ったかも、おそらく記録をとっていることでしょう。その程度の情報収集能力がない国だとは、文科省その他委員会の諸氏も、まさかお考えではないでしょう。個人名役職他の情報の機密性については、よろしくご配慮いただきたいものです。
個人の情報収集については、中国以上にアメリカが強いのは当然で、日本の通信網を完全に掌握しています。インターネットはアメリカの独壇場です。しかし、それすらも、中国は、北朝鮮ですらも「わるさ」をすることができます。
中国に、一方的に甘い顔を見せるのはどうかと思います。ほどほどに付き合うことが大切かと考えます。

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以上のような意見を、某会で聞いた。思い切る人がいるものである。

どの国とも仲良くやっていくのが理想だが、国家間は個人の付き合いではない。弱肉強食の世界である。そんなことは、歴史を少し読めばわかることで、ルールもへちまもない。狡猾で強力な者が生き残っている。嫌なものだが、それが現実であること、夜が来て朝が来て、また夜が来るがごとし。

軍事も情報も外交も、極端に弱い日本は、アメリカか中国かロシアの家来になるしかない。
この3者なら、ここはどうしても、日本の親分は、アメリカしかいないのである。
先の大戦に負けて以来、日本政府はずっとそう考えてきたし、今もこれからも、そうするだろう。それしかない。

英語が小学校の教科に堂々と胸をはって入ってきて、親も子供も教員も、もろ手を挙げて賛成している。日本人にとっての世界とは、英語を話す人々の世界であることを、誰もがうすうす気づいているからである。
アメリカの礼賛をする気はないが、高々3億人の国民国家が、世界を牛耳っているように、日本国民に思わせているのである。
それだけでも大したもので、セックス・スクリーン・スポーツの3S戦略の元祖である。おまけに軍事大国、資源大国で、抜群に優秀なエスタブリッシュメントが豊富だ。
日本の政策担当者が、日本がFive Eyesに入ることは不可能だが、しかし、日本をEnglish-speaking countryにしたいと考えたとしても、責めることはできない。

 

 

教員の自殺、女子高校生売春、自尊感情の欠落。生きてこその、この世である。

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自殺した人を複数知っているが、その原因を考えると、肝心な時に、必要な人または言葉があったならば、決して自殺実行に至らなかったのでないかと思う。
もちろん、自殺は個人個人の問題で、他から軽々に言うことができない。推測するしかないのである。
自殺は一度で「成功」した場合もあれば、何度か試みてようやく達した例もある。
どうも、不思議なことであるが、死ぬ死ぬと言う人は、案外死ぬことは少ないらしいが、そうではない。死にたい、と言う人は、死ぬ場合が多いような気がする。
これも、また軽々には言えないのだが。
ふと思い出したが、政治家の中川親子の自死らしき事件は、今だによくわからない。

さて、一時、自殺原因には、自尊感情の欠如があるのではないかという意見があって、学校現場で、もめたことがある。
というのも、当時、女子高校生による売春、いわゆる援助交際が流行した。女子大学生も巻き込んで、今でも一部では、盛んらしい。
金に困るでもなし、家庭が崩壊しているわけでもない子までもが、小遣い稼ぎや気分の放蕩や混乱で、行う場合がある。
某高校の体育科教員が、女子生徒は、俺より稼いでやがる、などと酔って話していたのを聞いた。

女子高生売春は、子供本人の自尊感情の欠落であり、やがて、自殺につながる可能性がある、と騒ぐ心理学者や精神科医がいたため、各高校は対策らしきものを立てなければならなかった。
自尊感情の植え付けが必要不可欠との通達である。

仮にそうだとしても、自尊心自尊感情を、学校教育で一朝一夕に育てることができるかどうか。
自尊心は、第三者から与えられるものか。それとも、自分から生まれるものか。自分で自分に箔をつけるべき感情ではないのか。
マンの短編に、人はこう見られたいと振る舞うことで、実際にそう見られるようになる、というのがある(Thomas Mann "Wie Jappe und Do Escobar sich prugelten")。
立場が人を、それなりに見せることと似ている。政治家を見よ。
自尊感情は自分で自分を鼓舞するしかないもので、他人から言われて育てるものではない、という意見もある。

自殺は、教員に限らず勧められたものではない。自殺者本人にとって、損なことが多すぎるのである。
しかし、いわゆる有名人にとって、最後の花の咲かせどきでもあるのだろう。自殺した作家だの芸人だの政治家だのは、人の記憶に残りやすいし、生前の業績が実質以上に判断されがちである。
これは、俗にいう生き恥をさらすことよりも、生きていて何がしかのことをなしたのでないかという予想があるのだろう。逸失利益の計算のようなもので、過剰に水増しする。

教員は、まさか、自己の再認識のために自殺することはないだろうが、自爆的に行う、対人関係への面当て自殺は、よくあることである。
しかしこれもまた、徒労であることは以前記した。

とにもかくにも、自殺はあってはならない。しかしあるだろうけれども、決して、してはいけないのである。生きてこそのこの世かな。

 

英語を国語とする。名文家、土居健郎中井久夫そして一葉。ですます調の怪。

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かつて文章は「である、だ」の、いわゆる常体で書くものだった。

「です、ます」の、いわゆる敬体は、日常の会話で使うもので、または手紙に書くもので、文章らしい文章は、常体で書いたり読んだりするのが、「常態」だった。
それがどうだろう、近頃は、学術論文や一部の小説を例外として、多くの文章が、敬体で書かれている。
うんざりである。野下郎しい。冗長である。弛緩している。リズムがない。

と言いたいところだが、私たち全員が、鴎外や荷風漱石ではない。
テレビ漬けゲーム漬けの「目に文なし」のようなものである

そんな私たちが日本語の文章に似たものを書くには、常体は難し過ぎる。敬体は簡単なのである。
読むには、敬体が理解しやすい。文体が間延びしているから、頭に入るまで時間をかせげる。ゆっくりと浸透するので、なんとなく理解したような気になるし、現に話し言葉なのだから、普段から聞くのに慣れている。話し慣れているから、書くのも楽である。
安楽続きで、いいことだらけである。

常体で他人に読ませる文章を書くのは、実のところ、難しい。
新聞記者上がりの司馬某のねちこい講談調や、翻訳崩れの村上某の澱んだ空気臭とかの、一芸がなければ、なかなか書けるものではない。

すべての翻訳は、ごく一部を例外として、悪文である。その例は、人文社会学系の岩波文庫本や、近年の大学入試現代文を覗きさえすれば、堪能できる。
意味不明の常体文を読むくらいなら、つぶやきごっこ、顔本なんとかの自己アピールごっこの類であっても、ですます調の方がよほどいい。


ところで。
平成生まれの子供は、せこすぎる。けちくさい、みみっちい。
生まれたときから、政策として、貧乏を強いられたから、気の毒ではある。昭和世代のように、どん底の苦労を知らないから、その挙句の過剰な浪費もしらない。強いられた拝金主義者でもある。
youtubeという動画サイトを見ると、どう考えても、くだらない他人のパクリ動画で、やたらとチャンネル登録とかを狙っている輩が多い。どうせ、企業の宣伝に踊らされている些末な小遣い稼ぎであろうが、その根性が哀れにも愚かである。
こうして私はネットで稼ぎました、と、その「方法もどき」を紹介することしか内容がないネット記事も多い。笑止である。本当にそれで儲かっているのなら、同じ方法を他人に教えるわけがない。

どうも困ったものである。まっとうな方法で稼げばいいものを、ブログや動画で稼ごうなんて、卑しい料簡である。さもしい根性である。


話は戻る。
私は、精神科医では、土居健郎中井久夫を愛読するが、なぜかといえば、文章がいい。
およそ学者とは文章のことである。学問は、文章と同義である。
これで理解できない人は、それでいい。わかる人には電光のようにわかるだろう。

今、学校では、英語をこれまで以上に強制しようとしている。未来地図には、日本は米国領になるか中国の省として記されているはずである。現政府は、米国を選んだ。国民の多くはこれを支持するだろう。
しかし、どうなるにせよ、日本人が民族として存続しようとするのなら、国語の伝統は絶やしてはいけないはずで、具体的には、日本語の読み書きしかないのである。
小学校で英語を増やし、国語をますます軽んじることは、民族の同一を捨てようとすることである。それもまた、現政府の狙いかと言えば、おそらくそうだろう。

とはいえ、国語教育の退廃は、すでに半世紀前から始まっていた。
小学校で音読が減り、作文を指導できる教員がいなくなり、読書好きの子供を見かけなくなり、駄本の洪水が始まり、テレビと称する害虫が増え、携帯やネットやスマホごっこが溢れ、とうとう、英語を日本語に変えようとする有様である。

土居中井両氏のような文章を書く人がめっきり減った。しかし、彼らは、外国語の達人である。日本の現代文章は外国語の洗礼を受けなければ、書くことができないのである。恐ろしいことである。

樋口一葉は、外国語を読んだのか、そもそも、学んだことがあるのだろうか。
一葉の文章は、どこから来たのだろう。日本の伝統文学からに違いない。

私は、何が言いたいのか。
すべての外国語を無視したとしても、日本の古文を徹底することによって、達意の現代文としての日本語の発展と継承とが可能ではないか、と言いたいのである。

 

大学の授業参観。すべての授業を、一般公開せよ。無能大学教員の駆逐。

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かつて読んだものの中に、忠臣蔵の刃傷沙汰の若殿を評して、うかうかと齢を経て云々とあった。
年齢は、うかうかと取るものである。それ以外に取りようがない。
また、沖の干潟を見て潮の満を知るのではない、我が足下を見れば、水は、すでにそこに迫っているではないか。年齢は、潮の満ちるがごとし。
まったく「うかうか」と年齢を重ねたものだと思うのである。笑うべく憐れむ可し。

 

さて、熱心に学んで、成績もよく、それなりの学校を出て、人の知る大企業とやらに就職し、そこそこ仕事をし、高給を得て、趣味レジャーともに充実している風の、だれそれの噂を聞く。
いったい、事実なのか、願望なのか、知人より伝え聞いたのである。

 

うかうかと齢をとり、全速力で時間は流れるが、若い頃は、それに気がつかない。未来は永遠だと思い、実際に定年または諦念までは、気の遠くなるような年月である。
しかし、その定刻になってしまうと、時間は速度を増す。
俗に、一日を5歳は時速5キロで歩む、20歳は20キロ、50歳は50キロで走る。速度が年齢に比例するという。やがて、一年の四季が、まるごと一日のうちに、終わるようになる。
人によるので、あろうけれども。

 

人によるといえば、子供のノートである。
ノート指導は徹底しなければならない。だからといって、小中学生の全員が同じようなノートを作れるかと言えば、そんなことはない。
むしろ、高校や大学の方が、似たり寄ったりのノートになる。
かつて某大学には、ノートをとらせることが何より楽しみな教員が多かった。教室の全員が同じ内容になるように仕向ける。小学1年生の入学当初は、そんな訓練も必要だが、二十歳の連中がこれでは困るのである。
板書をそのままノートに筆記させる。それ以外は許さない。コピーなり本の紹介で済ませればいいものを、ただただ筆記させるのである。大学教員の本領発揮、つまり手抜きである。
しかし、板書という行為すら、今の大学では稀になった。ひたすら、おしゃべりの時間つぶしに明け暮れる。恐るべきことである。

大学の授業は、外部の批判にさらされない。とってつけたようなファカルティディベロップメントとやらも、ブームが去った今、単語すら聞くこともない。例によって、あれも、超短期の流行語だった。大学教員が、自らの授業を、批判され検討し改善し反省する、なんてことはあり得ないのである。

学生に、授業評価をさせたところで、そもそも、批判する基準すらないのである。項目チェックも都合よくできている。子供にも、授業批評の目が育っていない。そもそも、最初から、ない。


ところで、大学図書館は、近年、落ち着いて学習する子供が増えてきた。
理由は簡単で、地域に開放したからである。登録すれば、誰でもが利用できるような大学図書館が増えた。
するとどうなるか、地域の目が図書館内部に届く。それどころか、キャンパスを常時、地域住民に監視されているようなものだから、大学運営が緊張する。


構内の食堂売店等を、地域に開放している大学は多い。登録制であっても、図書館利用可能な大学はまだ少ない。都内では数えるほどである。

普段の授業が、参観可能な大学は皆無である。申し訳程度に、年に数回の公開講座を開くこともあるが、事前申込制で、しかも、抽選では、利用者が限られる。数百の科目の中で、二つか三つ、それも年に数回で、大学教員の授業が向上するわけがない。
生涯、自分の授業を、学生以外の他人に見せることもなく、したがって、注意を受けることもなく、だらだらと自分流に我儘勝手な、無駄口を叩いて、口に糊するのが、大学教員である。

公開授業参観がなければ、教員の技量は決して上がりはしない。
大学こそが、公開授業参観を定期的に開くべきである。

というより、大学の授業は、全科目の全時間を、無料で公開することが望ましい。
それしか、大部分の無能大学教員を淘汰する方法が、ないのではないか。

 

 

 

 

 

長すぎる学校生活。授業の押し売りは、のっぺりと従順な国民の量産に最適だろうか。

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体育や美術などの実技系の授業によくみられることだが、実際に子供が活動することが授業の眼目であるはずなのに、なかなか子供の動きがみられない。子供を動かさない、子供の動きを封じてしまっている授業がよくある。
指導者が、授業の体裁を取り繕うために、だらだらと説明過剰になるからである。

研究授業で、体育館に子供を集めて、開始早々、延々と話をする。何を言うかと思えば、心構えだの集まり方が悪いだの、こちらの方を向いて話を聞けだの、小言のオンパレードである。
横に、跳び箱を用意をしているのに、「さあ、今日は何の勉強かな、そうです、跳び箱です」なんて、やっている。子供はうんざりして下を向いている。
開始のベルから、15分後、今度は準備体操ときた。あんなものは、授業開始前に、係の子供にやらせておけ。特に必要なら、部位を指定して筋肉をほぐし、体幹を整えてやればいい。
さて、次には、模範演技、実技を入るといった例の流れになる。
いったいこれのどこが研究に値するものだか、さっぱりわからない。

小中学校の体育科研究授業と称するものは、ほとんど時間の無駄である。研究授業は、練習方法や心構えの披露の場ではない。
体育の授業として、どんな指導が子供の実態の改善及び向上に役立つかの、実験的な試みの発表の場でなければならない。
通り一遍どころか、無駄な説教と時間潰しとで、体育嫌いの子供を増やすことになってしまうのは、教員らが、「教科体育」の把握ができていないからである。
それならそれでもよい。
せめて時間いっぱい燃焼させるような工夫が必要で、子供が楽しく活動し、気持ちも身体も満足感を持って、その時間を過ごすことができたなら、まあ成功した授業であると言える。
どうも、そのあたりが見えていない。
指導者にも、そのまた先輩教員、指導主事、大学学部教員らにも、見えていないのである。子供の満足よりも、自分の見栄と思い込みとで、「なにものか」であるかのように見せたい。「えにすいんぐ」ではなく「さむすいんぐ」だと言いたいのだろう。
小賢しい心配は無用だ。体育は体育である。以上でも以下でもない。
素直に「体育の授業」をすればいいことである。

以前、某有名私立高校の美術の授業で、指導教員は、研究室で自分の絵を描き、生徒らは隣の実習室で課題の絵を描いていたことを、話した。あれは最悪の「授業」であるが、しかし、無理に方向付けをして、子供の活動を縛らなかっただけ、まだましかもしれない。

子供の活動を、どの程度、方向付けをするかは、教科によって、扱う学習内容によって、変わる。
いい歳をした大学院生でも、これをやれ、と頭ごなしに指導者から言われることもある。
結局は、指導者の当該教科の構造把握に尽きる。

要は、ちゃんと時間と金を費やしただけの授業をやれということで、学校に通ってくる子供の人生を無駄にしてはならない。
幼稚園から大学院等までの学校教育は、所与のように思う人もあるが、そもそも当然ではない。かなり歪なことである。
義務教育として国家が定めた学習期間を過ぎたら、さっさと個人の判断にゆだねるべきである。
国家は自己保存を求めるから、それに適した社会構造があり、その方向に沿って、国民を誘導する。
不自然に長い教育期間があるのは、労働人口の制限や学校施設に働く人の既得権を守るためでもある。
しかし、人口統計を見れば、将来が推測できる。最悪の事態を避けるための方策が明らかであるのに、それをしないのは、やはり今のわが身が、我が身だけが、可愛いからである。
「おもてなし」などと騒いで、今を楽しむことができさえすればいいのだろう。

いつまで純情かつ従順な国民を、操作し続けることができるだろうか。
意味不明の授業と長期間の学校教育とが、それを後押ししていることは間違いないと思われる。