ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

「読み書き計算」が学力の中身である。失敗ばかりする学習指導要領。

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学校は、学力をつけるところであると、誰でもが思う。
ところが、学力の中身が、今ひとつはっきりしない。

学力とは何か。その人に身についた学習結果のことである。
では、義務教育期間での、学習とは何か。段階的に基礎的知識を学ぶことである。すると、学力は「段階的に基礎的知識を学んだことにより、その人に身についた学習結果のこと」である。

現在の指導要領が想定する学力は、「自分で課題を発見し解決する力」(文部科学省教育課程企画室)である。これはかなり奇妙な定義である。問題解決能力を前面に出すのならば、そのための基礎の力は、いったい、いつ習得するのであろうか。

学校では、教員が直接、子供を教えている。子供の実態は、教員が一番つかんでいる。現状に即した授業ができるのは、現場の教員しかいない。
子供の現状を的確に把握して、できる要因やできないの要因をはっきりさせ、対応した授業をする。ごく当然のことが、教員に期待されているわけである。

「基礎基本、関心・意欲、ゆとり、生きる力」などの、一連のキャッチフレーズは、マスコミ受けのする、あさはかな流行用語に過ぎない。学校は学力をつける場所、という当然のことを知れ。それ以上でも以下でもない。

近年の学校現場では、「読み・書き・計算」が疎かにされているが、これこそが、大昔から学習の基礎基本である。


学力についての、一般的見方の例。

「これからの学力は、「基礎学力」「基礎・基本」「生きる力」の3つに分けて考えることができます。
A:基礎学力
読み、書き、計算等各教科における独自の基礎的な知識・技能
B:基礎・基本
学習指導要領の各教科等の目標、内容として定められたもので、
次の4項目。
関心・意欲・態度  思考・判断  表現・技能  知識・理解C:「生きる力」
これは学校だけで育成されるものではなく、家庭や地域社会における様々な生活や体験を通して深められ、根付くものですが、大きく次の3つに分けることができます。
知育 徳育 体育
これらすべて含めたものが学力と言えます。」


以上は、「関心・意欲・態度」が、学力の重要な要素であると定義しているために、「読み・書き・計算」の訓練が中心なのか、「関心・意欲・態度」の経験や体験が中心となるのか、混乱している。

「読み・書き・計算」と「関心・意欲・態度」とは、分離できないものである。しかし端的な学力の定義として、どちらの方がより根本的な意義があるか、その答えは明らかだろう。

義務教育期は「読み・書き・計算」を第一とすべきである。
「読み・書き・計算」ができることによって「関心・意欲・態度」が生まれるのであっ て、その逆はあり得ない。
簡単な計算ができないのに、より高度な内容を求めるだろうか。
漢字を読めなくて、小説や新聞雑誌を読もうという気になるのか。自分から進んで調べようとするだろうか。
歴史や地理を知らなくて、社会事象や国際関係について、調べてまとめようとするだろうか。
「読み書き計算」の訓練と習熟のないところに、どうして「学ぶ意欲」が育つだろう。

学校教育は、読み・書き・計算の厳格な訓練の場である。そうすることによって、旺盛な知識欲が、出てくるとしたら、出てくるだろう。「関心・意欲・態度」を目指す授業は、本末転倒であり、およそ実効的ではない。

結論はこうなる。
学校教育、特に義務教育期は、本来の意味の「学力」を高めることに専念すべきであり、それは「読み書き計算」を徹底することによってのみ可能である。
「関心意欲態度」等の流行語が意味することは、「読み書き計算」を高めていくことによって、自然に身につくことである。
曖昧で我儘な気分を、最初に目指してしまうなら、すべてがまやかしの毎日となるだろう。


小学6年生の学級担任は、子供の人生を変える。「当たり」の教員を探して転校し続けても無駄である。

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小学校の6年生の担任の影響は大きい。
小学校に通う6年間のうち、6年生の時だけが特別ではない、と言えばわかりやすいだろうが、そうではない。
1年生から5年生までどんなにひどい状況であっても、6年生の時の担任の力で、立ち直らせることできるからである。その逆もあり得る。最後の1年間で、担任次第で、子供が落ち込んでいく場合もある。

物事は、入り口と出口が大切だろう。入り口の、小学1年生の担任の責任は重く、それだけに実績と教育力が必要だ。
それなら、小学校の出口である6年生の学級担任も同じである。
ところが、これがけっこういい加減なのだ。

教員の多くは、高学年はしんどいから嫌だ、と言う。
高学年担任を引き受けてくれさえすれば、だれにでも、やっていただこう、となる。
それでも、なり手がいない。特に、野外活動と称する泊りがけの集団訓練のある5年生担任は不人気だ。
そこで、新採教員を充てる。新採教員には、拒否権がない。何事も勉強だ、やってみろ、と先輩教員が脅しをかければ、嫌とは言えない。それでも嫌と言えるのは、親が校長か教育事務所筋に顔の利く人脈がある場合である。嫌だ嫌だと泣き出す女教員もいる。泣き喚いて、我儘を通す。
ともかくも、高学年の担任には、なり手がいないのである。5年から6年への持ち上がりが多かった頃はなおさらであったが、近年、一年ごとの担任交代が常識となっている。


さて、なぜ6年の学級担任がしんどいかといえば、親の目が、他の学年に比べて一段と厳しくなる。教える内容も高度化する。時間数が多い。音楽や家庭科が、現場によっては、専科教員に任せることがあるとはいえ、ほとんどの教科を、学級担任が独力で教えるわけだ。教員に相当の教養や学力がなければ、難しい。授業準備も大変である。

子供も、6年生ともなれば、「素直なお子様」ではない。批判力も判断力も表現力も体力も、大人並みの子も多い。そんな子供を何十人も指導するのである。並の力では、とうていできない。

新任の教員に高学年を続けて受け持たせるのは、考えられないくらい無茶である。
新米の医師に、聴神経腫瘍の除去手術を担当させるようなもので、下手をすると取り返しのつかないダメージを子供に与えることになる。

5年生から6年生まで持ち上がりが通常だった頃には、その被害は目も当てられなかった。高学年2年間の無駄は、あまりの惨状である。
どうせ小学生だからごまかせるだろうと思う人は、子供のみならず、教育そのものを馬鹿にしている。
学校での時間の重さが全然わかっていない。

もし仮に、その教員がよほど優秀だったとしても、子どもには他の教員に受け持ってもらう権利がある。
どんなに長くても1年間で担任を替えるのが、正常なのである。いや、半年でも、3ヶ月ごとの交替でも、よいくらいである。

学級担任の重要性を考えるとき、親たちは、担任の住居の方向へ足を向けて眠れないはずである。
と言いたいところだが、現実はそうではない。
というのも、担任教員の実際の力は、正当に評価されていないからだ。

優秀な担任教員は少ないのだから、現実の我が子には関係がない。だから、教員全体をバカにしたり、信頼しなかったりする。これは危険な傾向だ。ごく少数の素晴らしい価値あるダイヤを、見逃すことになる。
ほとんどの親は、学校の担任よりも、身銭を切って子供を通わせている学習塾の講師の方を信頼する。それもまた人情である。

ただより高いものはないという。
ただである公立学校の、その教員を馬鹿すると、そのしっぺ返しは、実力のつかない無為な小学校6年間という報いとなる。
確実に、子供の一生を左右することになる。



ついでに言えば、教員と保護者との関係が、良いとか悪いとか聞く。

親は、自分の子どもが立派に育つことを願っている。願い通りに教員が指導してくれれば、親は喜ぶ。これが、学校と親とがうまくいっている状態だ。

だが、現実はそう簡単ではない。
子供が順調に育っていても、教員の力だと考えない親もいる。
それどころか、もっと育つはずなのに、教員が邪魔をしていると考える親もいる。

教員によって、子供の成長に影響があるのは、もちろんである。だから、子供の成長が進まないのは、教員に原因があることも事実である。よい教員に会えたら幸せ、そうでなければ、これは損である。

しかし、不公平はこの世の常だ。当たり外れは、必ずある。外れ担任ならば、損失であり、悪影響があるけれども、こればかりは、嘆いても仕方がない。運が悪かった。

他人事のように書いたが、親としては納得できないこともあるだろう。
小学6年生の場合、担任によって、中学受験の合否が変わってくる。子供が、中学受験をするかどうかに迷っているときに、担任の考え方が大きく影響する。
そんな馬鹿な、と言いたいだろう。低学年から、学習塾に通わせて、家庭教師までつけて準備させた。6年の時の担任によって、何かが変わってたまるか、と言いたいだろう。

残念でした。これまでの経過がどうであれ、6年の担任の影響は侮れない。
影響には大小があるのは当然で、当り教員からは益を大きく受けるとしても、外れ教員からは、そもそも外れなんだから、影響なんて受けやしない。と言いたいが、それが大きな損失を受けるのである。

担任の影響は、一般的には、よい方向より、悪い方向に、顕著に出てくる。その逆は、まれである。
なぜ、まれかと言えば、担任の能力が十分ではないからである。どうせ、無能なら、子供をいじってもらわない方がいい。

ところが、学校では、子供は教員の「指導」の下にあるので、時間潰しの「活動」や「授業」を無視して、さっさと帰宅するわけにはいかない。児童生徒の哀れさである。

親にとって、解決策はない。転校しても、良い担任に巡り合うまで転校し続けることになる。簡単に当たるわけがない。不可能である。
不公平は、現実生活の掟である。

教員にとって、解決策はある。あなたが、教員ならば、解決は簡単だ。
親は、我が子に学力がつくことを強く望んでいる。だったら、学力をつけてやればいいのである。
それが、あなたにできるかどうかは別問題である。

学力をつけた上で、なおも余力があれば、「生きる力」なり「ゆとり」なり「総合」なり、何とでも能書きつけて、勝手に踊ればいいだろう。

 

 

 

 

 

子供ごときに振り回されるな。荒れる中学校と元気のない教員。

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学校に元気がない。
特に中学校は落ち込んでいる。教員が自信を持って子どもに接していない。
原因の一つは、学校の教育方針が揺れていることにある。
本を正せば、教育に、芯がないからである。
戦後、教育の芯がなくなり、その場その場で、ふわふわと流されてきた。ごまかし続けることができなくなった。

加えて、「ゆとり教育」が、子供と学校とを駄目にした。文部科学省が「自信をもっ」て示した「学習指導要領」は、最低水準まで子供の学力を下げてしまったのである。

勉強を一所懸命にしなくてもよい、したいときにしたいことをすればいい、というのが「ゆとり教育」である。教員は学習内容を教えるのではない、子供から相談があれば、聞いてやるふりをすればいい、というのが「ゆとり教育」である。
こんなことで、子供に学力がつくわけがない。

教員はいいだろう。教員にとって児童生徒は、所詮、他人の子である。だが、親にとっては大事な我が子だ。我が子の勉強に関心を持たない親はいないだろう。

荒れる中学校の教員のほとんどは、現状に満足し、変革を諦めている。
生徒からゴミ屑とあざけられて、誰が熱心に勉強を教えるだろうか。
「少しでも、学びたいやつは塾に行って勉強しろ。それでいい」と、考える教員がいたとしても不思議はない。
「学校は喧噪とお遊びと狼藉の場所である。次の転勤までなんとか無事に過ごせればいい」と、考えている教員もいることだろう。

公立中学校が、学習する場から時間つぶしの場へと変化した原因はまだある。
一部の問題生徒を、入学後、夏まで放置してきたことや、小学校の高学年の時に、きちんとした指導がなされていなかったこと等だ。本来は入学早々、叩き直すべきである。

小学校では「平等」や「競争嫌い」や「個性尊重」などの建前を優先した。守るべき学習ルールを教えていなかった。小学校高学年の担任に責任がある。
学級担任の腕は、著しく落ちている。
あぶらがのってきて、ようやく充実した教育ができるらしい中年以後、管理職志向になって、学級指導に熱意がなくなることが多い。外見だけを取り繕う。
教育委員会の評価を気にして、学習に挑戦と冒険とがなくなってくる。

中学校では、そもそも授業の上手い教員が少ないことに加えて、地域の生徒数の短期の増減と予算の関係で、正規の教員の採用を手控えた。結果、一時的な臨時講師が、授業をまかなってしまうようになった(常勤教員よりも力を持っている人も多いけれども)。教員の不安定は、生徒への指導の弱さとなる。

中学校の各教室では、生徒が乱暴狼藉の限りを尽くして、授業妨害をする。
原因は、教員のお粗末な指導、または生徒の我が儘である。
どんなに荒れた教室だろうと、きちんと指導してこそプロである。
しかし、そうはいっても、授業が成立しない中学校が多くあること、みなさんご存知だろう。
疑問の向きは、近隣の中学校に電話して、参観日の日程を尋ねて、見に行くがいい。

小中学校は、「地域に開かれた学校」とやらで、授業参観日を、一般に開放する。ただしあまり来てほしくないので、宣伝しない。むしろ秘密にする。

参観日当日は、いくらなんでも、生徒も大人しいと思いたいが、やはりうるさい。
と書けば納得するだろうが、実は、参観日だけは、生徒は、普段と打って変って静かである。
このあたりの立て分けは、子供は実にうまい。
新任の中学教員は、参観日の「穏やか」な教室で授業をしながら、明日のことを思うとぞっとする、と言う。

今、不景気である。これで不景気なのかと訝る人もいるだろうが、不景気である。
景気が悪いと、学校は安定する。
親は生活を不安に思っている。我が子の将来もいいことはないだろう。就職できるのかしらん。せめて金のかからない学校に行けるだろうか。
子供は時勢の変化を肌で感じて、甘えた真似ができないことを、知っている。

社会全体がバブルで浮かれると、子供も浮かれるのである。
学生諸君が、赤旗もって色とりどりのヘルメットかぶって、社会主義革命ごっこで遊んでいた頃は、世間の景気はよかった。
さすがに今は、本郷だろうが戸山だろうが秋葉原だろうが、コスプレの男女はいるが、革命ごっこの学生は見ることができない。

事ほど左様に、児童生徒学生は、大人を盗み見て行動する。
ゆめゆめ、子供ごときに振り回されてはならない。

 

 

修学旅行中の子供の死亡。教員の責任はどうなる。入浴溺死と監督体制の問題。

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テレビ新聞等のマスコミは、質の悪い商売である。次から次へと話題を探し回り、打ち上げては音の消えない前に、次の花火に点火する。

さて、もうお忘れのことと思うが、広島の観光地のホテルで、修学旅行中の小学生が、入浴中に溺死するという事件があった。
親は、旅行中の子供の体調について、事前に学校に配慮を求めていたという。
にもかかわらず、事故が起こった。

学校行事での事故は、保護者の学校への配慮希望の有無に関係なく、学校・教職員に全責任がある。
教員と子供との間に、いわゆる「特別権力関係論」を持ちだすまでもなく、学校管理下では、被教育者に対して、教育者は責任を持たなければならない。
修学旅行中での事故、とくに宿泊のように監督責任が強く及ぶ範囲内での案件は、児童生徒は100パーセント、教員の管理下にあるとされ、したがって教員の責任も100パーセントである。

どのような学校でも、宿泊を伴う行事では、入浴時間の監督、見回り、指導について、教員は神経質に注意を払っている。常識である。

今回の事件では、当該教員、学校長、教育事務所職員(いわゆる教育委員会)の責任は重大である。過失責任があることはもちろん、過失致死罪適用もありえるのではないか。


学校での子供の生命・身体の安全について、小中高大学と、年齢が上がっていくにつれて、学校側の責任は軽くなり、逆に子供本人の責任は重くなる。
学生が自殺したからといって、ゼミの担当教員はそれほど悩まない。
高校のマラソン大会で生徒が心臓麻痺で死亡しても、体育教員が引責辞職しなければならないわけでもない。因果関係の証明が難しいからだ。

しかし、義務教育期の学校の場合は、違ってくる。
それでも、中学校での事故は、大目に見てもらえることがある。中学生は、自分の行動に、ある程度の責任をとることができると了解されているからだ。
小学生となると別物である。

修学旅行中の今回の事件では、教員、学校、教育委員会職員の責任は100パーセントである。
非難しているのではない。公開状況から判断すると、当然にそうなる。
引率の教員と学校長にもう少しの注意があれば、事故は防ぐことができた。
修学旅行中の基本の配慮事項につき、市教育委員会の連絡及び確認事項の徹底があれば、このような事故事件は起こらなかっただろう。

学校行事で、教職員が一番、注意することは、子供の生命・健康の安全確保である。
学校行事参加中の児童生徒に、不幸にして、事故があったとき、問題となるのは回避可能性があったがどうかである。
だから、教職員も、その任命権者である教育事務所職員も、行事にあたっては最大限の配慮と注意とを事前に検討する。
管理下にある子供の安全確保は、学校関係者の責務であるからだ。

俗に、医者は100人殺して一人前だという。
医者は患者を死なせている。死んだ患者の家族からいえば、医者によって殺されたのである。医者は患者を殺したのである。しかし、医者は弾劾されることはない。あれば因果関係の立証ができる場合である。
多くの場合、病人が医者を選んだ。患者の生命与奪の権利は、医者にゆだねられたのである。だから、医者は患者の死亡について自責の念にとらわれることはない。あっても、少ないだろう。

しかし、教員は違う。教員が子供を選んだわけでも、子供がその教員を選んだわけでもない。制度の中で、偶然にその学校、教員、学級に入ったのである。
だからこそ、義務教育の小学校では学校・教員・教育事務所職員(教育委員会)の責任は大きいのである。

 

 

学校への匿名の意見は、無視すること。親の不平不満のはけ口に過ぎないことが多い。

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教員の指導について、学校に匿名の意見がよせられることがある。
貴重な意見として、教育活動の向上のために、直すべきは直していけばいい。
しかし、この匿名というのが、曲者である。
教育上の意見またはクレームと、学校は重く受け止める傾向がある。
しかし、その内容が極めて怪しくても、事実かどうか確かめることができない。

意見の真偽の立証責任が学校側にある、と学校の職員は考える。
するとどうなるか。
疑心暗鬼の中で、しかも当該関係者の気持ちに考慮しながら、検討しなければならない。子供に直接聞くことはできない。なぜなら、匿名意見であるから、その真偽は不明である。不明なことを、直接子供に問うことは、教育活動では慎重になる。「子供の心を傷つけた」などと大騒動になる。
学校や教員は、途方に暮れてしまう。

匿名の意見に影響されると、授業活動がびくびくと自信のない、遠慮したものになってしまう。


景気が良くても悪くても、誰でも何かしら不満を持っている。
公立学校はその不満のはけ口となりやすい。あることないことをごちゃ混ぜにして針小棒大に騒ぐ親が、学年に一人でもいたら、たちまち、学校はバランスを失して、喧噪に巻き込まれる。

現代は個人によって価値観がバラバラである。全員に喜ばれ安心され満足を与えるような教育活動は、とうてい無理な相談だ。だからどんな教員にも、細かく捜せば、どこかに指摘できる失言や授業技術の不満点がある。
人間相手の仕事だから、当然である。

教員は、責任ある意見ならば、虚心に耳を傾けるはずである。
ところが、意見の出所がはっきりしないのは、これは密告であり、中傷であり、たんなるデマであるかもしれない。

意見を出す親は、現状を改善させようと考えるのならば、実名を名乗ることが必須である。そうしないのは、これは単に、自らの不平不満や子育ての困難さを学校教員に向けて暴発しているにすぎないと考えられても仕方がない。個人的嫌悪感(当該教員が個性的であればあるほど)を抱いている場合もあるだろう。お互い人間である、仕方がない。
しかしながら、どのような場合であっても、発言者が特定できる場合はいい。対処の方法もすぐに決まるし、解決が速いのだ。
発信源が特定できないとき、非常に困る。いったい何をどのように対処してよいかが、決めることができない。曖昧で漠然としたものになる。

教育活動には、一般論はない。すべてが子供ひとり一人の個別問題である。誰にでも通用し、誰もかもが幸いっぱいというわけにはいかない。
すべてに通用することは、大した効果を上げないものである。

にもかかわらず、誰のことか、どの子供のことか分からないのなら、手の打ちようがない。それどころか、すべての子供の最大公約数として対応することとなり、全体的に活力のない、ミスばかり恐れる逃げの授業となってしまう。

その意味でも、学校に第一報が入ったときの対応は大切である。できるだけ、具体的な意見の内容と、その発信元の特定が必要だ。学校側も、責任の所在を明らかにしない意見は、無視をするぐらいの覚悟が必要だろう。



ある学校に、保護者と名乗る人物から、教員に対しての注文または非難の電話があったとしよう。

校長は、教員に対しての教育活動上の意見を外部から受け取ったとき、その内容を、すぐに教員全体に伝えるかどうかは、事実関係と当該教員とが確定できないうちは、十分考慮しなければならない。
意見の発信源が特定できない場合、その意見の信憑性はないと考えられる。それは単なる不満の一つとして表されたと判断すべきで、その度に教員に伝えていては、混乱が生じる。

ところが、ほとんどの校長は、自分で責任を背負うことに耐え切れない。待ちきれない。当該学年や教科部にすぐに伝えてくる。
外向けには、校長は対応が早い、というポーズをつけるわけである。これが間違いの元で、匿名の意見を言った者は、愉快とばかりに図に乗ってくる。
匿名だから、 何でも言える、学校は何でもする、というような間違った「常識」が、親の間に広まってしまう。これは、教員の「蚤の心臓」に微妙に影響し、溌剌とした授業を阻害する。

職業人は、通常その仕事に対して、一定の型がある。教員も例外ではない。この「型」は、日々安定した教育術を実行しなければならない必要性からくるものであって、マンネリとはやや違う。
型は安定していると同時に、自己研鑽によって効果的に変化向上させなければならない。であるから、型の変化に対して、親が賛同的な意見を伝えるならば、教員はいっそう勇気づけられて教育活動も効果的で安定したものになる。
ところが、匿名の否定的な意見である場合、それを教員に一般的に(つまりどの教員に、どの父兄から、という情報がはっきりしないままで)伝えることは、その益よりもむしろ損失の方が多い。
効果的教育を行う教員までもが、匿名意見のとばっちりで、自らの教育観や方法を自己反省のあまりに投げ出してしまう傾向になる。
まじめで熱心な教員ほど、子供や親の反応を大切にするので、継続してきた学習方法を、変更したり、中止する可能性がある。

少々では自己の信念を曲げない、といえば、立派な人物のように喧伝されるが、とんでもないことで、現場を知らない人間の言うことである。
現場は常に一歩先が闇の綱渡りである。信念らしきものは簡単に豹変する。自己反省と自己研鑽の固まりが教員である。

さて、情報を自分だけで保存するというのは快楽でもあるが苦痛でもある。その苦痛に耐えることが、校長や教育委員会職員筋には、必要なのであるが、実際には、自分に得になる情報は秘匿するが、それ以外の情報はいとも簡単に公開する。
校長を指導監督する立場にある「教育委員会」は、校長のリーダーシップを、即席で向上させようとして、稚拙な研修じみたものを多く実施している。
だが、性急で軽はずみな策動は、慎んだ方がいい。人材不足であるということが、まったくわかっていない。

人は育てるものでもある。だが、育つべき種は、あまりに少ないという現実を知らなければならない。
立場がその人を育てるという。それはそうだろう。だが、立場のみの人物がほとんどある。
誰もが、自分の周りを見渡すと、すぐに気づくこと、ご同様である。

 

 

教員への暴力は許可。抵抗した教員は、体罰行為とされてしまう。

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教員が、子供へ厳しい指導をする。それは、「体罰」とみなされる。教室内の学習規律を守らない児童生徒学生に対して、教員は平身低頭で、ご機嫌を取りつつ、お願いするしかない。

授業中、子供が教員の背中を蹴ろうと殴ろうとナイフで刺そうと、なすがままにされるしかない。
抵抗すると、それは教員による子供への体罰とみなされてしまう。

教員の抵抗により、子供の心が傷ついた、不登校になったらどうする云々。親子で、教員や学校や教育委員会に抗議する。教員には勝ち目はない。だから、無抵抗で、殴られたり、蹴られたり、刺されるしかないのである。

緊急避難だの、正当防衛だのと、理屈をつけて、教員にも、有利な場合があると思いたいだろうが、残念でした。
過剰防衛だ、他に方法があるはずだ、そもそも子供から信頼されていないのではないか、ラポールを取るべく普段から努力していたのか等々、どうせ、マスコミ一同大喜びで、教員を攻撃するに決まっている。


子供の暴力には、教員は黙って耐えるしかない。抵抗したら、すべて終わりである。誰もかばってはくれない。

なぜなら、こういった、児童生徒学生による教員への暴行沙汰は、日常茶飯事である。抵抗する教員がいたら、かえって、他の教員から失笑される。みな、子供の横暴傲慢暴力に我慢をして、仕事しているのである。堪え難きを耐え忍び難きをしのんで、授業を続けているのである。子供へ歯向かうなんて、教員ごときが何様の気だろうと、同僚マスコミ教育行政一丸となって、とことん、当該教員を追い詰めるに決まっている。

それを誰よりも知っているのは現場の教員たちである。
これまでも今日もこれからも、教員は、生徒様の鉄拳をくらい、足蹴にされ、罵倒されつつ、黙って生きていくしかないのである。

youtu.be

こんな話を聞いた。
小学校の体育の授業中、ひとりのわんぱく小僧が、どうしても教員の指示に従わない。教員が、跳び箱の危険性を話しているのに、他の子供に砂を投げたり、後ろを向いたりする。数度の注意にも、止めようとしない。当該教員は、その子供のそばに行って、突き飛ばした。
ようやく子供は静かになったが、さあ、その夜、親が激昂して、校長、教育委員会へ抗議する。
結局、当該教員は、職を辞することになる。校長はむしろそれを喜んだ。

このケースでは、校長が笑って済ませて、親子を諭せば、いいだけのことである。
しかし、「体罰禁止」を破ったのは教員だ、教員が悪い。悪い教員の学校の校長にも責任があるだろう、となると、はなはだ具合が悪い。だから、教員が職を辞する意思を漏らしたとたん、「そう思うなら、そうしてくれ」、と校長には、渡りに船である。誰でも自分が可愛いものだ。

体罰とは、かくも恐ろしいタブーである。
子供は、それを知っているから、一方的に、教員へ「体罰」を加えることができる。笑って殴ることができるのである。