ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

先輩、すごいです。巨悪の根源のテレビ。鑑識眼とインターネットの利用。

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中学生から大学生にかけて、部活動の影響だかなんだか知らないが、とってつけたような敬語に類する言い回しをする子供が多い。
先輩、何々です。何々ます。というように、ですます言葉なのだが、妙に気に障る。それもそのはずで、「場違い」なのである。
教養も品もないようなのが、あの顔と態度とで、同じくそれ以下の「先輩」に向かって、何様じゃあるまいし、「~です~ます」とは、聞き苦しい。
「子供同士」は分相応に、いつもの子供用語を使うがいいだろう。
丁寧語をつかいたいなら、せめて漫画雑誌やテレビばかりではなく、少しはまともな本を読んで、日本語を話したらどうだ。そうすれば「ですます言葉」も、少しは、身についてくるだろう。

以上で、ご理解頂けたと思うが、それでも分からない人やわかりたくない人のために、もう少し説明しよう。

中学高校大学生の言葉遣いが異様な感じになってきたのは、平成になってくらいからである。
聞いていて、無理がある。自然でない。
丁寧語を話すにはそれなりの話し方というものがある。それを無視して、ただ、「先輩、~~です。~~ます。~ですか。」では、違和感がある。しかも相手が相手である。薄汚い同士が、言葉ばかり洒落ても、無駄である。

子供の下手な丁寧語ぐらいで、目くじらたてるな、という意見もあるだろう。
しかし、だれでもが口にする「ですます言葉」とはいえ、不勉強な中高大学生の口から発せられると、なんとも不気味不愉快嘔吐唾棄嫌悪なる気分になるのはなぜだろう。 
まことに不思議である。

これを品と言い、教養という。
「ですます」ですら、まともに言えない子どもが増えてきた。原因は、ご推察の通り、テレビである。テレビの司会者や解説者と称する芸人等が、インチキ言葉の震源である。テレビの巨悪は、かくのごとし。

では書籍はどうなのか。
書店には本雑誌の類が山積みである。それなりに売れているのだろう。しかし売れ筋の本はごく一部で、ほとんどは返本となる。
無駄に多すぎるのである。

あれは、本が豊富なのではない。数少ない良書を、読み手の目に触れさせないように、駄本で取り囲んでいるのである。読むべき本を、ごみ本の中に埋没させ、すぐには見つけることができないようにさせるためである。

次から次へと印刷される月刊誌、シリーズ本、単行本新書文庫は、出たと同時に大量廃棄物である。
出版社も商売だから仕方がないが、平気で出し続けることすのは、それなりに売れるからだろう。してみると、私たちの新物食いも相当なものである。

出版業は虚業である。正業の仮面をかぶったイカサマである。客にとりあえず、買わせればいい。
「どうすれば食いつくだろうか」と、ない知恵絞って、アイデアを搾り出す。その場限りで、売れてしまえば、後は野となれ山となれ、である。

ところで、古人は、多くの学問的遺産を残したが、彼らには読むべき書物は多くはなかった。
数少ない良書を熟読吟味して、新しい創造へと結びつけた。

現代ではどうだろう。
書物はあふれかえり、誰でも簡単に手に入れることができる。
書物の山を片っ端から読んだとしても、それでいったいどうなるのだろう。
繰り返しになるが、読まないほうがよいような、時間と金と資源の無駄になるような、そんな本が多すぎる。
ごく少数の良書は、読む意味のない、または絶対に読むべきではない大量の本の中に、埋もれてしまっている。

インターネットの普及した現代を、仮にネット時代と呼ぶのなら、ネット時代の読書とは、数少ない良書のみを読むことをいう。
多くの知識、細々とした知識の断片は、ネットで検索し、参照すればいいのである。
基本書の熟読とネット検索の技術とがあれば、それなりの理解に到達できるのではないだろうか。
学校での、国語の授業の目的は、子供が自分にとっての良書を、他の多くの愚書から読み分けて、選択できる「鑑識眼」を育てることではなかろうか。
そうなれば、日常の言葉の問題も自ずと解決できるに違いない。

 

 

残酷なくせに、すぐに傷つく傲慢中学生。飼い犬の教員はキャンと鳴く。

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子供が、粗末(我が儘、粗暴、弱虫)になって、学校での指導が難しい。この流れは以前からあったのだが、平成になっても、変わらなかった。ますますひどくなった。

教員が厳しい指導・叱責でもしようものなら、子供はすぐに「心が傷ついた」なんて言い出す。その程度で傷つくのなら、いくらでも傷つくがいい。

子供はナイーブというよりは、傲慢なのである。

小学校では、教員の命令で、低学年から児童同士の表向きの言葉に、神経質になることを強要される。二重人格を強いられる。
その結果、中学生になると爆発して、言いたい放題、やりたい放題となる。
小学校での、あの建前優先の「子どもの心は純真無垢で、天使で」といった、押しつけがましい指導が祟ったのである。

子供は残酷なものである。競争が好きである。勝ち負けが好きである。優越感を持ちたくて、自己顕示欲の固まりである。また、差違を差違と認めて、他人に対しては容赦しない。

残酷こそが、子供のありのままの姿なのに、「人権」「みんなで」「個性」「おもいやり」「仲良し」といった建前だけの、社会主義風の団体思想が、小学校教育の根本にある。
もっと自由な競争をさせるがいい。勝ち負けをはっきりさせて、納得させるがいい。
そうすれば、長じても、もう少しは、人間味が出てくるだろう。

ところで、小中学校ともに、個性の強い教員が少なくなった。
親は、不思議なことに、教員を「飼い犬」だと考える。

飼い犬を散歩させている人をよく見かける。
私たちは、なぜ犬を飼うのか。
それは、自分より目下の何者かを引き連れて威張りたいからである、と古人は言った。

犬である教員は、親が「しっし」といえば、「わん」とひと声ないて尻尾をふらなければならない。
親がわき腹をけったら、「キャン」とないて、びくびくと恐れ入らなければならない。

それに逆らえば、どうなるか。
「子供の心を傷つけた」だの、「指導法に問題あり」だの、「親の要望を無視する」だの、あることないこと叫んで、その教員をずたずたにする。
これしきのことで、ずたずたになるのかといえば、それがなるのである。
親には、「教育委員会」がついている。議員がついている。マスコミがついている。
一方、教員側には、何もついてない。生徒が背中にこっそり貼った紙切れ(バーカ)くらいである。

かつては、組合が教員を守ろうとしたが、今は猫のようにおとなしくなっている。

中学の授業は、荒れに荒れている。授業に不真面目で、他の子供の勉強の邪魔ばかりする子供が、わんさかいる。
そんな子供に向かって、「馬鹿やろう、出て行け」と怒鳴りたいところだが、それができない。そんなことを言うと、待ってました、とばかりに、教育事務所の職員が駆け込んできて、その教員をやっつける。親子にとっては、なんとも頼もしい。
教員は、危険を冒してまで、できない坊主を、真剣に叱るだろうか。指導するだろうか。

するわけがない。彼ら彼女らにも生活がある。

中学校が沈滞する原因の一つは、世間が教員を大切にせず、馬鹿にしている風潮にある。

担任の実力を測る方法はあるのか。授業内容は難しいくらいがいい。算数・数学ノート。

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担任の実力を測る簡便な方法はあるのだろうか。

それは、子どもの学校で使っている学習ノートである。
いろいろ見る必要もない。算数のノートを見れば、たちどころにその教員の実力が分かる。
我が子は、学校でしっかりと学力をつけているのかどうかは、算数のノートを見れば明らかだ。

ノートの役目は、今さら書くのも何だが、「知識を確実なものにする」ことにある。ただ聞いたり、読んだりしても、知識を増やすことはできできるが、自分の手を動かして、ノートにまとめることは、知識をもっと確実なものにし、頭の中に定着させる。学習したことを忘れにくくし、よりいっそう理解を深めるわけだ。

ついでに言っておくと、小学生が学校で使うノートは大判で、AかBの罫線のもの(一般に「大学ノート」と呼ばれているもの)がいい。
小学校中学年から大学ノートを使わせるのだ。
・同じ形式のノートをいつも使うようにしたほうが、整理しやすく、まとめ方が身につきやすい。
・キャラクターグッズではなく、質素で地味目なものが学習に集中できる(値段も安いし、一挙両得)。動物や漫画の表紙などもってのほかである。

多くの学校では、学年はじめに、担任たちが勝手にノートを決めて親の承諾もなしに買わせているが(学校に搬入している業者の受け売り)、けしからん話である。

またついでに、言うなら、
・鉛筆の濃さは「B」がいい(2Bでもよい)。すべり具合がよく、色もはっきりとしていて、ファックスにとるときもきれいに写る。鉛筆の他は、黒と赤のボールペンが必要だ。ピンクやオレンジやブルーのものはごたごたした感じになる。
・したじきは、無地で色のけばけばしくないものがよい。
・黒板や、教科書、参考書の丸写しではなく、いつも自分で工夫して書くようにさせる。これが、考える練習となる。


ところで、肝心の子どもの算数のノートを開いたときに、あなたはどこに注目すべきか。
以下の点に、注意したらいい。優れた教員なら、次のようなことは、すでに指導しているはずである。

○ 計算では、できるかぎり消しゴムを使わないようする。まちがった計算方法や、方法は正しかったが計算結果が誤りであった場合など、消しゴムで消して、 正しく書き直そうとしてしまう。しかし、これはよくない。間違いは間違いのままで、ノートに残すことが大切だ。その横に、赤ペンで正しく書いておく(直し たことがよくわかるのならば、鉛筆でもよい。赤ペンに持ちかえる時間の節約になる)こうすると、二つの便利なことがある。一つには、自分の間違いが、正し いやり方とともに一目で確認でき、理解が深まる。もう一つには、消しゴムで消す時間が助かり、問題に集中できる。テストのときはともかくとして、ノートで は、消しゴムは使わないほうがよい。
かけ算やわり算では、横に長い線を引くときがあるけれども、この線がグニャついていてぴしっと決まっていないのは見苦しいものである。といって、いつもいつも定規を使って線を引いていたら、時間がかかりすぎる。では、どうしたらいいか。
結論から言えば、最初のうちは、常に定規を使って引くべきだ。
慣れればだんだん速くなる。線がきちっと引かれているのは気持ちのよいものだ。しかし、これも見苦しくない程度にまっすぐ引けるようになったならば、定規を使う必要はない。フリーハンドで、直線が引けるのがベストである。

○ 計算式をノートに整理した形で書く習慣をつけよう。
たとえば分数の割り算をノートにする場合、仮分数の計算では、帯分数になおして割る数を逆数にしてかけるのが普通だ。真分数と帯分数が混ざっていると、真分数だけの計算の場合と違って、計算に必要な式の長さが違うことになる。

ノートの横に3問題、縦に4列書くとすると、
3×4=12で、
12問題がノート1ページにおさまる分量だ。この場合、もっとも長い計算問題にスペースを合わせる。1列に2問しか書けなければ、そのページはすべて一列毎に2問ずつ書く。つまりどのページを開いても、碁盤の目のように計算がきちんと整頓されて書かれているようにさせる。

○ ところで、ノートの厚さだが、どのくらいのものが使いやすいか。ページ数で120ページ、枚数にして60枚程度がよい。これより薄いものは、あっとい う間に使いおわって、一月で2冊も3冊も使うことになりかねない。以前のところを調べたくても別のノートに書いてあるということが、しょっちゅうだった ら、不便である。逆にこれより厚いものだと、重たくかさばり、持ち運びに不便だ。長い期間、同じ1冊のノートだと、学習の進み具合が今一つ盛り上がらない 感じがするし、表紙なども汚れたり破れたりして、ちょっと情けない感じになる。

○ ノートの両はしはあけておくのが原則だ。行間もたっぷりとる。つめて書くと、一見熱心にやってるような感じがするが、こせこせしていて考えが整理され ていないことが多い。考えをつけ加えたり、まちがった計算を直したりするのにも、十分なスペースが必要だ。何も書かれていない余白が、書いている中身を強調する、という感じで書くほうがよいのだ。



ついでに言えば、算数・数学は難しいほうがいいのである。簡単にわかるようでは駄目で、教え方が下手なことと、教える内容を低くすることとは別問題である。
教育技術が下手だから、程度を下げて子供が分かったところで自慢にならない。難しいことを、理解しやすく教えるのがプロである。

算数は具体物との対応が大切だ、とかで、分数の3分の1を教えるとき、大きなケーキを買ってきて、包丁で三つに分けたりする。
それがよい授業なのだそうだ。
とんでもないことである。
算数は抽象概念を操作できるようにする。具体物は不要どころか、害悪である。
チョークと黒板があれば十分で、それで理解できないのなら、教え方がまずいか、教わる方の能力不足かの、どちらかだろう。子供の能力不足はめったにないことだから、ほとんどの場合、教員の側に責任がある。

こんなことを言うと、すぐに反論されそうだが、反論するがいい。

抽象的なことを、どのように理解させるか。具体物を提示すればいいのではない。むしろ、逆である。
学習者に、抽象を抽象として理解できるようにさせる。その訓練が授業である。勘違いしては困る。

もう一つ言うと、たとえば、数の導入で「百玉そろばん」のようなものをつかって、児童の頭をことさらに固定化するようでは、ダメである。あれはすべて無駄とは言わないが、頭の訓練にはならない。
難しいことを難しいままに、理解させる。子どもは、難しいことを抵抗を感じながら、学ぶ。これを、実際に児童生徒に体験させなければならないのである。
学習では、「わかりやすく」「楽しく」「親切心」は、まったく余計なことである。
むしろ、わかりにくく、退屈で、抵抗感のあるように、授業を構成するくらいでちょうどいい。

 

 

学年通信は、教員の保身のため。親は、生かさぬよう殺さぬよう、学校を監視せよ。

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学年通信というものがある。教員からの親向けのプリントである。月に一度、決まりきったことごとを書いて、挙句の果てが、「一生懸命やらせていただきますので、ご協力のほど、よろしくお願い申し上げます」といった文面で結ぶ。
教員のくせして、ここまで遜ると、かえって見苦しい。自信がないのなら、さっさと辞めるがいい。

今も昔もこれからも、学校は、子供だけのみならず、後ろに控えている保護者までも、甘やかし続ける。
どこの学校の教員も、親と同じ世代が増えてきて、自信も哲学もない、骨なし教員が増えてきたためである。
骨なしが学校の大部分を占めた。骨ある教員の居場所はすでにない、絶滅したのである。

絶滅するのは勝手だが、日本がそれでは浮かばれない。
日本人の誇りもなく、外国に阿る人間ばかりが育ってゆく。

多くの教員は、日和見で、「国際交流」や「総合学習ごっこ」や「みんな一緒で、仲良しごっこ」の大好き人間である。
抜け目のないチャイナやロシアや白人種の攻撃を受けると、ひとたまりもない。

無論、他国は、それが狙いである。

彼らは、日清日露の日本の勝利や、先の大戦での日本の奮闘を決して忘れない。心の底で、なぜか日本人を恐れている。しかも憎んでいる。
だからこそ、先手必勝、日本を影に日向に攻撃するのである。
話が飛んだようだが、そうでもない。

身近な、「学年通信」とかいう、まやかしのプリントを見ているうちに、日本の教育を巧妙に破壊し、教育の主体である教員の心理を愚かで卑しいものにする作戦が、ここまで浸透したのかと、思いを深めたのである。

もちろん、教員の保身の面もある。
というのも、学校へいろいろと暇に任せて、注文または言いがかりをする親が多い。
要望、意見、提案、非難など様々な仮面をかぶって、やってくる。

学校にしてみれば、ありがた迷惑で軽く聞き流す、または拝聴すべきことであるが、実はこれは案外、効果的である。
というのも、学校という存在は、多少煙たい人々が世間にいた方がいい。
親は、適度にうるさく学校へ注文をつける。そうすれば、学校も適度に緊張して、だらけたりしないだろう。

今時、だらけた学校なんて多くはないと世間は思うのだろうが、どっこい、だらけていない学校の方が少ないのである。
だらけ学校は、高校に特に多い。それでも大学ほどではないのは、ご存知の通り。
教職員が組合を中心に結束して、自分たちの思うような方向へ学校全体を引き摺るような学校である。

非難しているのではない。むしろ、応援したいくらいだ。組合がなかったり、力があまりに弱いと、行政の意のままになる可能性がある。行政は、一歩間違えば、極めて不安定で定見のない連中の集まりだから、とんでもないことになる危険性が、なしとしない。

しかし、生徒の学力向上どころか、入学した生徒たちを、ご丁寧にも3年間かけて駄目にしてしまう学校がある。安心して「お任せ」してはならないような学校があることも事実である。
親は監視の目を緩めてはならないだろう。

で、何が言いたいか。
文句を言いすぎると、学校がへこむ。特に学級や教科担任がへこむ。教員がへこむと、良い教育はできない。学級もめちゃくちゃになることがある。
今の学校は、親の些細な文句にも弱い。
きわめて弱いのである。

だから、親は言い過ぎて、学校を殺してはならない。生かさぬよう殺さぬよう適度に文句を言ってやれ。このバランスが大切なのだ。

 

 

PTAは不要である。無駄なパーティは、カフェでやれ。

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不詳の息子や娘でなくても、子供は叱って育てるのが当たり前なのに、近頃の親はそれをしない。しないばかりか、子どもに阿る(おもねる)、すり寄る、甘やかす、ごまをする。子どもから足蹴にされても、恥ずかしげな苦笑いで、すませる。

教員も、だらしないことは親に似ている。
教育事務所職員(俗にいう教育委員会の勤務者。指導主事等)も、経験不足の青二才が多いから、学校現場の足を引っ張ること往々ある。

教員が万が一、正論を吐き、授業を進めても、理解しない親がいる。分からない親が、教育事務所へ文句を言い、学校長へ文句を言うと、教員はぺしゃんこである。
実際には、ぺしゃんこになる教員は多くない。そうならないように、あらかじめ予防線を張る。親や委員会向きに無難なことをする。知的で険しい道よりも、怠惰で安全な道を選ぶようになる。

これでは、道理の分かる教員も、やる気が失せる。勝手にしろ、と言いかねない。
とうとう、不肖の息子や娘は、誰にも叱られることがなくなって、生理的にのみ成長していく。

自分の子供を叱って育てることができないのなら、それは親ではない。
厳しく授業を進めることができないのなら、それは教員ではない。
「子供」である。


子供といえば、保護者も学校を遊戯場にする。
それがPTAという「ごっこ遊び」である。

ずいぶん変な保護者が多いと聞いた。
朝から、学校に出入りして、PTA会議室とやらで、パソコンをいじったり、なにやら印刷したりして喜んでいる。幼児まで連れてきて、近くのスーパーで買ったサンドイッチを食べ、ジュースを飲んで楽しげである。
子供は退屈で、廊下を走ったり、大声を出したりする。泣き出す赤ン坊までいる。若い母親たちは大笑いで、世間話(韓国ドラマ)に花が咲く。
隣の教室では授業の真っ最中だというのに。

PTAは社交でありパーティである。
教員が、こんなことにつきあわされては、たまったものではない。
だが、子供の親は、みな有権者である。議員にとっては、投票の一瞬だけとはいえ、大切なお客様である。
議員は母親に弱い。したがって、教育委員会も、保護者に弱い。故に、校長はもっと弱く、教員はもっともっと弱虫である。

実際に子どもを教えているのは教員である。一番強くなければならない教員が、実は一番弱いのである。これで誇りを持って、よい教育ができるのだろうか。

断言してもいいが、学校はPTAとの会合なんぞ望んでいない。
今時、流行の学校協力者会議なる雑談会も、地域のガス抜きであり、年寄り達のお楽しみ会の役目を担っている。
いったい、何を「協力」するというのだろう。協力者に名を連ねている人の顔ぶれを見てご覧。なるほど、あれで「地域の実力者」なのだそうだ。一体全体どうな実力だろう。雁首並べて、いかにも嬉しげである。

何が協力だ。大きな世話である。学校は以前からあったし、今もあるし、たぶん、これからもあるだろう。妙な変化があってはならないのである。厳しく学問を教えればいい。イベントごっこはやめておけ。

保身こそすべて、教員の処世術。台風や交通事故に過剰反応。

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メールを紹介する。小学校の保護者である。

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先日大きな台風が来て、市内の小中学校はすべて休校となった。
翌日、その保護者が所要で学校に行ったとき、校長に、
「昨日は先生方のお宅も大変だったでしょう」というと、
すかざず校長は
「いいえ、職員全員、朝から午後7時まで学校につめていましたから」と妙に力んで説明する。そんなことを聞くために、尋ねたのではない。

休校になった学校に教員が出てきたからといって、全然、自慢にならない。
児童生徒のいない学校は、学校ではない。さっさと帰って、自宅の周りでも点検するがよかろう。
第一、最初から学校に来るな。台風で、大して技術もありそうもない教員達が、校舎内にいなければならないほど、学校は脆弱なのか。
だとしたら、ふだんから危なくて、子どもを通わせられないだろう。台風の朝や夕方に、教員にちょろちょろされたら付近の交通の邪魔だ。

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どうしてこんなことになったのか。
自信がないのである。教育に自信がないのである。流行語で言うと、アイデンテティが揺らいでいるのである。
だから、ひたすら、一所懸命やらせていただいています、というポーズを示すことによって、自分を守るのである。哀れというより、愚かである。

その大元は、教育に骨がないからである。
骨とは何か。大きくいえば、道徳、つまりは愛国心の問題だろう。歴史ともいえる。
教員に日本国への愛国心というか、国という概念があれば、それを背負った「教員」である。誇りも出れば、背筋も通る。

戦後、シナやソ連ロシアやアメリカ他の作戦にまんまとやられて、日本は、骨抜きになった。今も変わらない。他国から見れば、これほど料理しやすい相手はいない。

道路も学校もこれほどお粗末なのに、近隣諸国をはじめ世界中に、金をたっぷりとくれてやってる。
諸外国は当然のように「受け取ってやろう」。それを元手に、日本への攻撃準備(必ずしも武力のみではない。経済文化教育すべて)をする有様だ。

お話もどって。
教員よ、ことさらに威張れとはいわないが、少なくとも卑下する存在ではないことを、自覚したらどうか。

内に威張って、外にはびくびくの校長たちは、あと少しで定年である。最後ぐらい、少しは、気骨を見せるかと思えば、ますますヒラメになる。もともと骨がないのか。とすれば、ヒラメですらない。


まだある。
以下は聞いた話である。

ーー

小学生が学校近くの歩道で、交通事故で不幸にも亡くなった。
痛ましい事故だが、その後の学校の様子が変わってしまったというのだ。

いまどきのことだから、当然のように、事故の原因を学校のせいにするメールなどが来たりする。校長は真っ青になって、あわてふためく。全校児童に黄色いハンカチを持たせ横断歩道を渡らせる。
教員は、ハンカチを持って渡った子どもの数を毎日調べて報告し、クラスごとのグラフにつける。全職員の車に、安全運転の巨大なステッカーを貼らせる。貼ったままかどうかを、毎日、校長が調べる。
全校児童に交通安全の類の作文を書かせて、地域に配る。
職員による朝の立ち番、放課後の巡回(それも車に巨大な「何々小学校 見回り」のステッカーをつけて)。
校長の口癖は「世間が見ている。」

ーー

そりゃそうだろ。世間が見ているのではない。校長自身が、世間体を気にしているのだ。職員の「犠牲的」な行為で、己の保身と対面とを守るのである。

だいたいが、事故と学校とは、なんの関係もない。すでに話したかもしれないが、通常の判断能力があれば、すべては、At Your Own Risk、自分の責任である。いきなり飛び出せば、車にぶつかることくらい、知るがいい。

学校長は、何よりもまず、保身に突っ走る。そうしてきたからこそ、校長になれた。校長として「適役」なのである。
教育事務所の諸君も、もちろんそうで、自分自身の責任を回避するこを職是とする。

事故は事故、学校は学校。教員は教員である。
少しは目を覚ましたらどうか。