ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

みんな同じわけがない。学校選択制と、平等信仰の恐ろしさ

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公立中学校の学校選択制度が定着した。
行きたい学校を、保護者や児童生徒が自由に選ぶのは当然である。
その一方、義務教育とはいえ、公立中学校もまた、入学者を選ぶのも当然ではなかろうか。だったら、遠慮なく、選んでくれ。

選択制にするのはいいが、無理は禁物だ。実力以上のものを出そうとしたって、元からないのだから、何も出やしない。
これは子供や親に言っているのではない。学校に言っている。

まじめだけが取り柄のような教員や教育事務所(別名は教育委員会)は、地域からの評価だとか、協力者会議だとか、児童生徒による授業への評価だとか、点付けごっこのまねごとをして、ほっとする。

そんなことをしなくても、どうせ実力はすぐわかる。ばたばたするな。
無理をせず、普段通りのことでいいのである。自ずから、評価は定まる。

地域の暇人の協力者なんて、いらない、と突っぱねるがいい。学校管理者は、地域と仲の良いままで、退職しようなどとを夢を見るんじゃない。器でもないのに無理するな。

バランスシートは、どの分野でも必要である。均衡の上に立つべき学校が、利得関係者に操られたり、教員組合に押しまくられたり、保護者やその取り巻きに左右されてはならない。力のバランスを利用しながら、危うい航海をして行くのが、学校である。修道会を見よ。

学校選択について、各種の教員組合が恐れていたのは(または、その振りをしていたのは)、「競争激化」ということだ。
競争はどんな社会にもあるし、進歩の条件だから、望ましいはずだが、教員は、そうは思わない。ない袖ならぬ、ない能力を絞られることを嫌がって、駄々をこねる。 
惜しいかな、教員は競争を恐れすぎる。競争に負けたからと言って、明日がないわけじゃない。そもそもが、学校教育は売り上げを競う店舗ではない。
だから、競争とはいっても、大したものではないのである。枕を高くして寝ていろ。そして、目前の児童生徒に、しっかりと学業をたたき込めばよい。
それで十分だ。


ところで。
いまどき、人間の能力がみな平等である、と、まじめに信じている人はいるまいが、教員には、平等大好き人間が多い。

「がんばれば、できるようになる」は、教員間でも親たちにも、なるほど受けのいいかけ声である。
しかし、当の子供たちはだれもそんなことを信じてはいない。

数学や国語や体育や美術、あるいは音楽など、誰が得意で誰が不得手か、クラスメートもよく知っているし、何より本人が一番よくわかっている。
制度的なことはともかく、意欲容姿容貌学力その他の資質能力のどれ一つを取ってみても、なにひとつ平等であることなんてない。
要するに個人が生まれ持ったもの、またこれまでの生きてきた経験の結果として、平等なわけがないのである。

学校教育を「平等」が支配すると、学級や学校全体の児童生徒学生のレベルを引き下げて、日本人の学力の低下、やがては日本の国力そのものを引き下げる。
だからこそ、教員やマスコミは平等信者なのである。本音はポルポトなのである。

個々の素質素養の違いは、認めるしかない。
悔しいけれども仕方がない。仕方がない中で、悩んだり努力したりして、そこに進歩や発展がある。
「みな同じ、平等に、仲良く」というわかりやすく、低俗なキャッチフレーズは、すべてを狂わせる。
少なくとも建前としては、「みんな同じ」が大好きだった社会主義国をみるがいい。散々なことになってしまった。

みな違う、そこから始めよう。

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学年通信は、教員の保身のため。親は、生かさぬよう殺さぬよう、学校を監視せよ。

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学年通信というものがある。教員からの親向けのプリントである。月に一度、決まりきったことごとを書いて、挙句の果てが、「一生懸命やらせていただきますので、ご協力のほど、よろしくお願い申し上げます」といった文面で結ぶ。
教員のくせして、ここまで遜ると、かえって見苦しい。自信がないのなら、さっさと辞めるがいい。

今も昔もこれからも、学校は、子供だけのみならず、後ろに控えている保護者までも、甘やかし続ける。
どこの学校の教員も、親と同じ世代が増えてきて、自信も哲学もない、骨なし教員が増えてきたためである。
骨なしが学校の大部分を占めた。骨ある教員の居場所はすでにない、絶滅したのである。

絶滅するのは勝手だが、日本がそれでは浮かばれない。
日本人の誇りもなく、外国に阿る人間ばかりが育ってゆく。

多くの教員は、日和見で、「国際交流」や「総合学習ごっこ」や「みんな一緒で、仲良しごっこ」の大好き人間である。
抜け目のないチャイナやロシアや白人種の攻撃を受けると、ひとたまりもない。

無論、他国は、それが狙いである。

彼らは、日清日露の日本の勝利や、先の大戦での日本の奮闘を決して忘れない。心の底で、なぜか日本人を恐れている。しかも憎んでいる。
だからこそ、先手必勝、日本を影に日向に攻撃するのである。
話が飛んだようだが、そうでもない。

身近な、「学年通信」とかいう、まやかしのプリントを見ているうちに、日本の教育を巧妙に破壊し、教育の主体である教員の心理を愚かで卑しいものにする作戦が、ここまで浸透したのかと、思いを深めたのである。

もちろん、教員の保身の面もある。
というのも、学校へいろいろと暇に任せて、注文または言いがかりをする親が多い。
要望、意見、提案、非難など様々な仮面をかぶって、やってくる。

学校にしてみれば、ありがた迷惑で軽く聞き流す、または拝聴すべきことであるが、実はこれは案外、効果的である。
というのも、学校という存在は、多少煙たい人々が世間にいた方がいい。
親は、適度にうるさく学校へ注文をつける。そうすれば、学校も適度に緊張して、だらけたりしないだろう。

今時、だらけた学校なんて多くはないと世間は思うのだろうが、どっこい、だらけていない学校の方が少ないのである。
だらけ学校は、高校に特に多い。それでも大学ほどではないのは、ご存知の通り。
教職員が組合を中心に結束して、自分たちの思うような方向へ学校全体を引き摺るような学校である。

非難しているのではない。むしろ、応援したいくらいだ。組合がなかったり、力があまりに弱いと、行政の意のままになる可能性がある。行政は、一歩間違えば、極めて不安定で定見のない連中の集まりだから、とんでもないことになる危険性が、なしとしない。

しかし、生徒の学力向上どころか、入学した生徒たちを、ご丁寧にも3年間かけて駄目にしてしまう学校がある。安心して「お任せ」してはならないような学校があることも事実である。
親は監視の目を緩めてはならないだろう。

で、何が言いたいか。
文句を言いすぎると、学校がへこむ。特に学級や教科担任がへこむ。教員がへこむと、良い教育はできない。学級もめちゃくちゃになることがある。
今の学校は、親の些細な文句にも弱い。
きわめて弱いのである。

だから、親は言い過ぎて、学校を殺してはならない。生かさぬよう殺さぬよう適度に文句を言ってやれ。このバランスが大切なのだ。

 

 

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道徳という名の、おちゃらけ。道徳は「日本国史」以外にはない。 お粗末な教員の製造。

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過日、某小学校の道徳の授業を参観した。ジョバンニだかトルネードだかしらないが、外国の低劣な短編を読ませて、粗筋を言い合うような、嫌な授業だった。
道徳なら、道徳らしい「教材」を使うがいいだろう。

教材は、日本の歴史である。
国史には、人の道の教訓が満ち満ちている。
これこそが、道徳という名の「授業」で使用するべき教材である。それ以外にはない。

道徳は常識だ、というよりもむしろ、これは教養なのである。読書で培われるべき教養である。


実際の道徳の「教科書」はお粗末を通り越して、お笑いである。
小学校や中学校の「道徳」の教科書に目を通せば、教科書作成者たちに、道徳の「教養」の、一片だにないことが、わかるだろう。
あれは、道徳では、断じてない。
自信のない大人たちの、雑文の寄せ集めである。または、「近隣諸国」に、おどおどと遠慮した「ごますり文の集積」である。
これを、「おちゃらけ」という。


ついでに言えば、大人は、子供が毎日せっせと勉強して当然だ、と考えるが、子供の方は、遊んで当たり前だと思っている。
子供の分際で生意気だ、身の程知らずだと、子供に向かって注意する大人がいなくなったためである。
せいぜいそれに近いことを子供に向かって言えるのは、学習塾の有名講師くらいのものである。

公立学校の教員は、ずいぶん変わった。びくびく、おどおどするようになった。
それもそのはずで、子供や親や地域の住人から、四六時中「評価」される。その結果によっては、減給や配置換え、馘首もあり得ると、脅された。
学校内でも油断できない。自己評価、他者評価、第一次評定、第二次評定と、評価されっぱなしである。
これでは元気も出ないだろう。

教員は、もっと大切に扱うべき代物である。表向きだけでも良い、それなりの対応をしないと、ろくなことにならない。
教員への、粗末な対応は、結局、子供のためにならず、日本のためにならない。諸外国が、にんまりするだけである。

日本の人材の衰退は、外国の利益になる。限りある資源の取り合いは不可避である。
日本がこれからも安全で豊かな国であり続けるためには、意外なことかもしれないが、世間が教員を「大切にする」ことが、大切なのである。

あれもこれも、道徳教育の不在が原因であると思うが、如何か。

 

 

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