ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

PTAは不要である。無駄なパーティは、カフェでやれ。

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不詳の息子や娘でなくても、子供は叱って育てるのが当たり前なのに、近頃の親はそれをしない。しないばかりか、子どもに阿る(おもねる)、すり寄る、甘やかす、ごまをする。子どもから足蹴にされても、恥ずかしげな苦笑いで、すませる。

教員も、だらしないことは親に似ている。
教育事務所職員(俗にいう教育委員会の勤務者。指導主事等)も、経験不足の青二才が多いから、学校現場の足を引っ張ること往々ある。

教員が万が一、正論を吐き、授業を進めても、理解しない親がいる。分からない親が、教育事務所へ文句を言い、学校長へ文句を言うと、教員はぺしゃんこである。
実際には、ぺしゃんこになる教員は多くない。そうならないように、あらかじめ予防線を張る。親や委員会向きに無難なことをする。知的で険しい道よりも、怠惰で安全な道を選ぶようになる。

これでは、道理の分かる教員も、やる気が失せる。勝手にしろ、と言いかねない。
とうとう、不肖の息子や娘は、誰にも叱られることがなくなって、生理的にのみ成長していく。

自分の子供を叱って育てることができないのなら、それは親ではない。
厳しく授業を進めることができないのなら、それは教員ではない。
「子供」である。


子供といえば、保護者も学校を遊戯場にする。
それがPTAという「ごっこ遊び」である。

ずいぶん変な保護者が多いと聞いた。
朝から、学校に出入りして、PTA会議室とやらで、パソコンをいじったり、なにやら印刷したりして喜んでいる。幼児まで連れてきて、近くのスーパーで買ったサンドイッチを食べ、ジュースを飲んで楽しげである。
子供は退屈で、廊下を走ったり、大声を出したりする。泣き出す赤ン坊までいる。若い母親たちは大笑いで、世間話(韓国ドラマ)に花が咲く。
隣の教室では授業の真っ最中だというのに。

PTAは社交でありパーティである。
教員が、こんなことにつきあわされては、たまったものではない。
だが、子供の親は、みな有権者である。議員にとっては、投票の一瞬だけとはいえ、大切なお客様である。
議員は母親に弱い。したがって、教育委員会も、保護者に弱い。故に、校長はもっと弱く、教員はもっともっと弱虫である。

実際に子どもを教えているのは教員である。一番強くなければならない教員が、実は一番弱いのである。これで誇りを持って、よい教育ができるのだろうか。

断言してもいいが、学校はPTAとの会合なんぞ望んでいない。
今時、流行の学校協力者会議なる雑談会も、地域のガス抜きであり、年寄り達のお楽しみ会の役目を担っている。
いったい、何を「協力」するというのだろう。協力者に名を連ねている人の顔ぶれを見てご覧。なるほど、あれで「地域の実力者」なのだそうだ。一体全体どうな実力だろう。雁首並べて、いかにも嬉しげである。

何が協力だ。大きな世話である。学校は以前からあったし、今もあるし、たぶん、これからもあるだろう。妙な変化があってはならないのである。厳しく学問を教えればいい。イベントごっこはやめておけ。

保身こそすべて、教員の処世術。台風や交通事故に過剰反応。

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メールを紹介する。小学校の保護者である。

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先日大きな台風が来て、市内の小中学校はすべて休校となった。
翌日、その保護者が所要で学校に行ったとき、校長に、
「昨日は先生方のお宅も大変だったでしょう」というと、
すかざず校長は
「いいえ、職員全員、朝から午後7時まで学校につめていましたから」と妙に力んで説明する。そんなことを聞くために、尋ねたのではない。

休校になった学校に教員が出てきたからといって、全然、自慢にならない。
児童生徒のいない学校は、学校ではない。さっさと帰って、自宅の周りでも点検するがよかろう。
第一、最初から学校に来るな。台風で、大して技術もありそうもない教員達が、校舎内にいなければならないほど、学校は脆弱なのか。
だとしたら、ふだんから危なくて、子どもを通わせられないだろう。台風の朝や夕方に、教員にちょろちょろされたら付近の交通の邪魔だ。

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どうしてこんなことになったのか。
自信がないのである。教育に自信がないのである。流行語で言うと、アイデンテティが揺らいでいるのである。
だから、ひたすら、一所懸命やらせていただいています、というポーズを示すことによって、自分を守るのである。哀れというより、愚かである。

その大元は、教育に骨がないからである。
骨とは何か。大きくいえば、道徳、つまりは愛国心の問題だろう。歴史ともいえる。
教員に日本国への愛国心というか、国という概念があれば、それを背負った「教員」である。誇りも出れば、背筋も通る。

戦後、シナやソ連ロシアやアメリカ他の作戦にまんまとやられて、日本は、骨抜きになった。今も変わらない。他国から見れば、これほど料理しやすい相手はいない。

道路も学校もこれほどお粗末なのに、近隣諸国をはじめ世界中に、金をたっぷりとくれてやってる。
諸外国は当然のように「受け取ってやろう」。それを元手に、日本への攻撃準備(必ずしも武力のみではない。経済文化教育すべて)をする有様だ。

お話もどって。
教員よ、ことさらに威張れとはいわないが、少なくとも卑下する存在ではないことを、自覚したらどうか。

内に威張って、外にはびくびくの校長たちは、あと少しで定年である。最後ぐらい、少しは、気骨を見せるかと思えば、ますますヒラメになる。もともと骨がないのか。とすれば、ヒラメですらない。


まだある。
以下は聞いた話である。

ーー

小学生が学校近くの歩道で、交通事故で不幸にも亡くなった。
痛ましい事故だが、その後の学校の様子が変わってしまったというのだ。

いまどきのことだから、当然のように、事故の原因を学校のせいにするメールなどが来たりする。校長は真っ青になって、あわてふためく。全校児童に黄色いハンカチを持たせ横断歩道を渡らせる。
教員は、ハンカチを持って渡った子どもの数を毎日調べて報告し、クラスごとのグラフにつける。全職員の車に、安全運転の巨大なステッカーを貼らせる。貼ったままかどうかを、毎日、校長が調べる。
全校児童に交通安全の類の作文を書かせて、地域に配る。
職員による朝の立ち番、放課後の巡回(それも車に巨大な「何々小学校 見回り」のステッカーをつけて)。
校長の口癖は「世間が見ている。」

ーー

そりゃそうだろ。世間が見ているのではない。校長自身が、世間体を気にしているのだ。職員の「犠牲的」な行為で、己の保身と対面とを守るのである。

だいたいが、事故と学校とは、なんの関係もない。すでに話したかもしれないが、通常の判断能力があれば、すべては、At Your Own Risk、自分の責任である。いきなり飛び出せば、車にぶつかることくらい、知るがいい。

学校長は、何よりもまず、保身に突っ走る。そうしてきたからこそ、校長になれた。校長として「適役」なのである。
教育事務所の諸君も、もちろんそうで、自分自身の責任を回避するこを職是とする。

事故は事故、学校は学校。教員は教員である。
少しは目を覚ましたらどうか。

 

授業のやり方はNHKに学べ。NHK大好き、夏休み子ども電話相談室の素敵な言葉遣い。

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教員の指導力を高める、とかで、各地で色々な「取り組み」がされているようだ。
授業が上手と「評価」されている中学校教員の、実際の授業の一部を、N某局で放送していた。

「子どもの注意をひきつける」のだそうで、まずセサミストリートの真似事をする。チョークを使わずに、磁石つきのカードをべたべた貼る。
挙句の果てには、発言があった生徒に、ワッペンまで与える始末である(よく発言できました・・という意味らしい)。

仮にも相手は中学生である。馬鹿にするのも、ほどがある。
もっとも、生徒も生徒で、どんよりとごった眼で、学習意欲があるようにも見えない。座って、誘導されているだけである。

教員が下手な踊りをおもしろおかしく踊って、一瞬でも踊りが受けると、へへっと笑う、それがすなわち、生徒の興味を引き出し、指導力のある授業だ、ということであるらしい。

どうにもこうにも、日本の教育は、憂慮する事態に陥っている。教育関係者が気づいていないのなら、鈍感というより想像力の欠如である。
授業は、テレビゲーム感覚で、お客さんに楽しんで見ていただくべきものになった。

ついでながら、N某局が教育関連の番組に熱心なのは、視聴者離れを防ぐための策略でもある。
視聴者は人の子の親が多い。親ならば、みんな子供の教育に関心を強く持つのは当然である。
かつて、NHKは、百マス計算とやらで、陰山某を、まんまと売り出した「実績」がある。
「自社」のメディアの操作によって、流行を簡単に作り出すことができて、味をしめたのである。
親や子供に、「教育に強いNHK」と、強く印象付けた方が今後とも有利である。

不遜で愚かなことを平気でするのも、NHKの製作スタッフのほとんどが戦後生まれの、似非(エセ)民主主義のどんぶり教育を、たっぷり浴びて育った連中ばかりだからだ。彼らは、教育とは、「この程度のもの」と考えている節がある。

教育を、「低劣で、品がなく、お遊びばかりで、場当たりで、忍耐のない、短絡的で、自分の頭で考えないように、外国に依存し、外国羨望のままであるように」しておきたい。NHKの隠れた「ねらい」は、こんなところにあるのだろう。

高齢者がますます増える。この世代は、前も今もこれからも、NHKのよい御客さんであったし、あるし、あり続ける。N某は、だから、あの体たらくなのである。詳しくは皆さんご存じだろう。

ところで、NHKのラジオ番組に、夏休み恒例の「夏休み子ども科学電話相談室」なるものがある。これに出てくる子どもの言葉遣いがひどい。
ごくまれにきちんとした子どもがいるが、多くは、大人に「もの」を尋ねる言い方ではない。甘たれ声を出して、だらだらと話す。
返事は「うん」だの「そう」だのだ。
ハイと言えハイと。

局側のスタッフもスタッフだ。いい歳した回答者や司会の女性の、子どもへの言葉遣いがなってない。まるで相手が、一人前の大人のような対応をする。
NHKにしてみれば、子供は「質問をしてくださったお客様」だから、気を遣っているのかどうか知らないが、余計なことだ。
視聴者がうんざりする。少しは常識的な言い方をしろ。

なぜ、こんなことを言うかと言えば、この番組は、けっこう多くの人が聞いている。大人だけならよいが、子供も聞いている。
だから、子供が、あんな言葉遣いでかまわない、と間違って覚えてしまうかもしれない。これは困る。

私のように、NHKを贔屓にしない、むしろ嫌っている連中はごくわずかだろう。多くの日本人は、NHK大好き人間である。NHKの放送内容を、頭から信じ込んで、疑うことをしない。
これではNHK局の思う壺である。いざとなれば、大衆操作に走るだろう。危険である。
放送は、疑ってかかれ。視聴者は厳しく放送内容を吟味せよ。あるいは無視せよ。
NHKと称する利権集団は怪しさ満載である。

 

 

親孝行な夏休みの過ごし方。汗をふきふき、自宅で勉強しろ。ゴミ本を捨てて、古典を読め。

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また、夏休みがやってきた。

「夏休み」ではあるが、子どもは忙しい。
忙しいことは、悪いことではない。
夏休みはとことん遊べ、と言えば、恰好はいいが、あれは嘘である。
多くの子供にとっては、ほったらかしにされるだけのことである。
本音では、子供は暇をもてあましている。

欧米の親は、夏休みには、我が子をサマーキャンプなどに入れて、やっかい払いをする。
あんなのに始終、家にいられてはかなわない、というわけである。


夏休みは、猛暑で勉強できないなんてことはない。第一、多くの家庭では冷房がある。冷房がないところでも、赤道下ほど暑くはない。
ぶらぶらせずに勉強せよ。

勉強以上のことができる連中は、これは金持ちの子供の特権である。カナダ・ニュージーランド・オーストラリア等への短期留学、海外旅行、学習塾の夏期講座、各種運動の合宿などなどの名目で、遊び呆ける。
子供は忙しくて可哀そう、などと言うが、ならば忙しい子供は幸せ者である。あるいは穀潰しである。すべてに半端のない費用がかかるのだ。
日本の多くの家庭は、それほど金持ちではない。まれに金を潤沢に持っている家庭も、使い方が下手である。根性がいつまでも貧乏なのである。

「夏休みくらい、ふだんできないことをしろ」、「本を読め」、「自然の中で遊べ」等という。
安上がりだからである。

時間を有効に潰すにも、金次第なのである。

子供達よ、自分の部屋でせっせと勉強しろ。それが一番の親孝行な「夏休み」だ。
さまなくば、静かに本を読むがいい。


近頃の子供は、真っ当な本を読まない。
学校図書館にあるのは、漫画ばかりである。

今風の創作童話(童話を創作するとは笑止である。どんな才能の持ち主だろう。童話は、すでに昔からある。それで十分だ)や、流行作家が小中学生向きにでっち上げた低俗話の類である。こんなものを読んでいては、ろくなことにならない。二流三流以下ばかりを集めた図書室で、本好きになるわけがない。

原因は、教員の見識不足である。良書への鑑識眼がない。学校出入りの業者の言うがままに堕本を買いまくっている。

国語教科書も似たようなことで、お粗末至極である。

かつて多くの小学校の図書室には、筑摩書房の世界文学体系が全巻揃えで置いてあった。さもなくば、緑色の河出の世界文学全集があった。ルビもない漢字は低学年の子供には、読めないが、それでもかまわない。自分で調べればいい。または、前後の文脈で想像すればいい。
甘い菓子ばかりを与えていると、子どもは、新しい味に挑戦したり、捜し求めたりしなくなる。その結果、栄養不足になる。下手をすれば死ぬ。

教育は大人の責任である。子どもを駄目にするのは、ここでもやはり、大人である。 

 

 

力のない教員ばかり集まる学校。校長になりたがる連中ばかり。

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指導力の不足する教員ばかりが、集まる学校がある。

教育事務所の職員の中で、人事担当は、「管理指導主事」とかの大層な職名で呼ばれている。
担当は、人事配置で、学校への関心が低かったり、世代交代のために教育に意識が薄れてきている地域の学校に、神経や学力や指導力の弱い教員を集める。

教員に限らず、当該仕事に要求される技量未満の従業員は、どの組織にも、一定数いる。それが当たり前である。
企業は人員配置に苦労しているが、学校は、それを、一箇所に集める。
すなわち、「お気楽な学校」に集める。
中学校では、露骨だから、そんな学校は、学力の低下や生徒の規律の乱れによって、すぐにピンとくる。

企業でも、似たようなことがあるのだろうか。
景気のいいときは、窓際族などといって、仕事を与えない代わりに給料はきちんとくれてやった。会社は、連中を無駄に生かしていたが、今はどうなのだろう。
即刻、馘首するのだろうか。


学校は、教員の質で決まる。力ある教員が、たとえ数人でもいれば、その学校は一流である(滅多にない)。
力のない教員ばかり集まれば、その学校は、三流以下の学校である。
自分の回りの学校を見渡して、捜してみるといいだろう。

しかし、問題は、教員全体というよりは、ほとんどは学校の名目上の管理者である校長にある。
教育現場も御多分に漏れず、波風立てない人物が校長になる。または、ともかくヒラメでなりたくてたまらない者がなる。これがルールである。
校長に、ようやくなったはいいが、横文字を縦に直したような間抜けなマニュアルを、教育事務所から押し頂いて、それを金科玉条とばかりにありがたがる。
教員として迫力ある指導経験もなく、現場の荒波を避けて生きてきた。問題対応の経験が不十分で、読書もせず、「もの」を知らない素人である。
ちょっとした親の言説にもまどわされ、びくびくばたばたと落ち着かない。
だからマニュアルを見てこっそり安心する。
学校経営に、自信がない。あるとしたら、虚勢または鈍感の故である。

これは、企業と比べるとかなり奇妙なことである。
社長が、会社の経営に「自信がない」というようなことはあまり聞かない。失敗もすれば、順調なこともあるだろうが、社長職は、苦労して、その揚げ句、ようやくなれただけではない。実績を積んでいる。

教員社会は一から十まで、対面を重んじる。ようやく「上がり」「落としどころ」としての校長職を手に入れた。
あとは目出度く退職するだけである。そのあとは、「つて」を頼って、公共下請け機関、教育委員会嘱託、学校関連小企業等で小銭稼ぎをする者も多い。「校長円満退職」の印が「身分証」である。

近頃のように教員の権威が落ちいてる時勢には、頭の悪い者、教養のない者は、学校長には向かない。傷口が大きくなる。


企業と違って、営業や経営の実績結果は、学校にはない。
学校の管理や経営は、些事である。
現場が大切であって、管理者は必ずしも重要ではない。必要でないと言ってすらいいくらいである。

現場とは何か。
教員と児童生徒である。それがすべてであって、その他は、付け足しである。

ところが、肝心の現場教員は、どういうわけか、管理職になりたがる。給料が少し増えるのと見栄とのためで、人間の素直な気持ちとしては理解できなくもないが、教育活動そのものからみると、邪道である。

というのも、いわゆる管理職になってしまうと、昨日まで授業が下手で、冷や汗をかいていたことはきれいに忘れて、鼻高々で自慢である。現場の教員よりも、一歩高いところに立ったような気になってしまう。

以前は、管理職は、教員集団からの攻撃があって、それなりに謙虚さを持ち合わせていた。しかし、公務員への風当たりが強くなり、その結果、教員自身が世間にポチのようになった。しっぽを振って、わんわんである。
その反作用として、管理職側は妙に強くなった。もう天下を取ったような気持ちになっている。
一挙に行政万歳、管理職万歳になってしまったのである。

だからといって、自然消滅しかかっている教員組合が、奇跡的に盛り返して、管理側と敵対せよ、と言いたいのではない。

今のように行政が強すぎると、現場教員の立場が相対的に弱くなり、結果的に、実際の教育活動がお粗末になってしまうことを心配しているのである。

繰り返しになるが、学校の中心は現場の教員である。
校長教頭でもなければ、もちろん教育事務所でばたついている指導主事諸君でもない。

にもかかわらず、不景気風に煽られて、学校教育現場には、管理する側にとってまことに都合の良い風が吹いている。
世間の風が変わった、という、殺し文句が使える。
この傾向は、まことに危険である。

 

 

ミシュランの評価が嬉しくてたまらない。外国崇拝もいい加減にしないか。

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日本人がやたら気にするPISAとは、OECDがやっている「国際学習到達度調査」のことをいう。
到達度とか到達度評価、絶対評価なんて、現役の教員なら、馴染の言葉である。
評価ごっこは、実に下らない「時間潰し」である。しかし、安上がりに子供を選別したり、教員をとことん使役するには、便利な方法である。
PISAはもちろん、新自由主義の先兵である。
教育を損得商売の場にする魂胆である。実際、教育は金を生み出す不滅の木である。

人はランク分けが大好きで、特に日本人は、白人から認めてもらいたくてしょうがない。近頃は、朝鮮人やシナ人にまで、褒めてもらおうと、必死である。

文科省以下マスコミ人も、外国の怪しげな機関に、評価されることが嬉しくてたまらない。少しばかり上がったの下がったので、一喜一憂する。
下らないことである。

白人種からみれば、有色人種は目下の存在どころか、人間とみなされていない。白人至上主義の信者は、当の白人ばかりではない。肝心の日本人が、白人様が大好きなのである。
OECDのPISAなんぞ、無視でいい。経済人の商売勘定で他国の教育まで評価するんじゃない。

PISAの隠れた目的は、もちろん、日本人の奴隷化である。白人の言うとおりに労働し、目先の問題を手っ取り早く確実にこなす労働力がほしいだけである。

ついでに言えば、フランスのタイヤ業者が、こともあろうに、日本の料理屋にランク付けをするとは何事か。
三つ星だの四つ星だの、馬鹿も休み休み言え。
お前たちの意見など、聞いていない。
舌は自分自身が敏感かつ高尚だ。日本人の繊細な味利きは、外人ごときの及ぶところではない。

しかし、日本人は、どうしても外国礼賛の癖が抜けない。
あれもこれも、日本人自身の歴史、つまり国史を軽んじているからである。
ついでに言えば、歴史とはつまりは国史のことで、「世界史」とかいう教科は不快である。
歴史とは、自分の国家の歴史に決まっている。
他の国の歴史を知りたいのならば、アメリカ史インド史ブラジル史などがあるわけで、概括的な世界史などというものがあるわけがない。あるとしたら、それは何年何月にどこそこで何があったという、年表にすぎない。

しかしそうはいっても、大勢には逆らえない。
日本の歴史が等閑にされていることが、問題なのだ。
祖国を自覚することは、歴史を知ることである。
国史が大切にされていないようでは、国家の明日は、明るくない。亡国の一途とまではいわないが、その可能性はある。

義務教育期の社会の教科書があまりにひどい。教科書会社は、どうしてこんな堕本を平気で作るのか。
教科書会社は営利企業だから、結局は、客が買ってくれそうなものを作る。
客は、国民でもなければ、児童生徒学生でも、もちろんない。採択権を持つ都道府県の教育委員会である。

とすると、教育委員会は亡国の輩の巣であろうか。そうであると言いたいところだが、ことはそう簡単ではない。
実は、彼らも気の小さい小官吏である。

ここまで言うと、おわかりだろう。
陰に日向に、多くの思惑がうごめいている。私利私欲、諸外国の工作の類まで入り乱れて、結局、落ち着くところに落ち着く。

その挙げ句が、この有様である。
誰が、陰で笑っているのであろうか。
不気味である。