ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

女装男子・男の娘のミスコンに見る高校文化祭のレベル

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私立学校は翌年の入学希望者獲得の宣伝もかねて、文化祭を多く、秋に行う。
一方、国公立高校は、大学入試の追い込みの関係から、ほとんど6月に文化祭を行う。

高校の文化祭は、公立私立を問わず、この数年どんどんお粗末になり、レベルが落ちてきている。
いったい、この行事のどこを探せば、普段の学業の成果、知的な活動の発表の場なんだろうかと、疑問である。

生徒の作品、演技等、ほとんどが付け焼きで、正しい意味での児戯に等しい。以前は、もう少しは、見ごたえ聞きごたえのある作品や発表等があった。
もはや、高校文化祭は一種の怠惰な行事、教員の息抜きまたは地域の娯楽となったのだろうか。


その中で、唯一、年々盛んになり、行う学校が増えてきているのが、男子校のミスコンである。
女装の男子を陳列して、話したり歌わせたりして、観客がグランプリを選ぶという趣向である。

ある種の慣習として、行事の中で、女装少年を見物することは、男子高校では昔からあった。
それがインターネットの普及に比例して、増大した。
男子高校の文化祭で、女装コンテストは当然のように行われている。男女共学校ですら、企画に入れることもある。

さて、文化祭の趣旨からすれば、これはエンタメの範疇で、本筋からずれるのではあるが、しかし、文化祭で一番人気があり、話題にもなるのが、女装コンテストなのだから、仕方がない。
観客も楽しみにしているようで、会場は異様に盛り上がっているのである。

ちなみに、学校偏差値と男子ミスコンのレベルは、多くの場合、一致する。
いくら女装とはいえ、元がいわゆる美少年の方が、当然ながら似合う。そして、十代の男子は、勉強の訓練の結果による知性の輝きが加わることによって、「美し」かったりするので、成績と外見とが不思議と比例してしまうのである。

そんなわけだから、地域有数の進学男子校のミスコンが、見るに堪えるものとなっている。
ミスコンに出ようと意気込む子供たちは、もはや、冗談を通り越して、本気である。
高3で出る子もいれば、いきなり高1でデビューすると言ってきかない子もいる。毎年出て、3年生でグランプリをとって満足げな子もいる。

周到な準備で、服装、化粧、声の出し方、所作動作、練習にも鬼気迫るものがある。いったい、どうするつもりなんだと問いたいくらいである。
これも文化であろうか。装うことは文化でもある。

あっさりと、文化祭という名を止めて、女装祭、男の娘祭りと称したらどうか。

冗談はさておき、高校文化祭は多様であるからこそ、価値がある。普段の学校では、できないことを、時間と場所とを限定して、存分に表出させて、思い出をつくるのである。企画構成力や発表力の向上となり、学校内外の大人たちと交わることは一種の社会勉強の場となる。

ならば、多くの企画の中に女装コンテストがあっても問題ないだろう。それが文化祭の中心になってしまったり、結果として観客動員の目玉になっていたとしても、目くじらを立ててはいけないのである。
笑って、楽しめばいいのである。

「ゆとり教育万歳」が、今度は「世界トップレベルの学力を目指す」と言い出す。変わり身の速さが自慢。

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今は昔、例によって文科省が下手をして、全国の小中学生の学力を下げてしまった。
内外からの批判に、文科省役人たちは真っ青になった。大慌てで、「世界トップレベルの学力を目指そう」などと、各県の教育長を集めて話した。

自分でやっておいて、とぼけている。

ゆとり教育」だの「生きる力」だの「総合的学習」だの、公教育を、幼稚なキャッチコピーでガタガタにしておいて、今度は、てのひらを返して、学力優先、と言い出す。
学校が学力をつける場所であることは、有史以来当然のことである。それを壊したのはいったい誰だったろう。
寺脇某とその一味は、どこで何をしているのだろう。


お話変わって、大人は、子供に勉強してくれ、なんて頼む必要はない。
しかし、頼んでいない大人は、ごく少数で、日本全国津々浦々、家庭でも学校でも、「お子様」に、勉強していただくために、平身低頭して汗だくである。
子供は、いったい何様だ。

昔は、背中に背負った袋の豆を、食べ食べ、遠い京の都まで師を訪ねて行って、半年間、教えを請うた。後の半年は郷里の田舎で農作業をして次の上京と、学問へ思いを馳せた。これが勉強だった。

子供に、頼んでまで、「教えさせていただ」く必要はない。
大人は子供に対して、親切すぎる。
小中学校、高校大学と、児童生徒学生に対して、親切というより、お節介の度が過ぎている。異常である。

たとえば、小中学校で流行っているのが、「わかりやすい授業」だ。こんな戯言を言ってると、子供自身の怠慢や我が儘にすぎないことまでもが、正当化されてしまうだろう。
授業は困難で分かりにくいものである。それが学問である。こう覚悟することが、すなわち、勉強することだ。

それにつけても、NHKは、相も変わらず、お遊戯のような素人芸を授業と称して放送し、恥じるところがない。

とはいえ、教えることに不熱心な教員や学校体制を擁護するわけではない。以上は小中学校に当てはまるが、高校の半分くらいと、大学のほとんどでは、全然、逆なのである。まったくもって、子供へのサービスが皆無である。月謝泥棒である。俸給盗人である。
この件につていは、今までも話したから、もうよす。


競争のない運動会、体育祭は無駄である。団体演技は、共産圏の宣伝運動の如き。

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運動会は無駄である。

運動会というイベントがある。
軍国主義とやらが大嫌いらしいそぶりを見せる「教員組合」も、不思議と運動会だけは賛成であった。
ただの賛成なら、可愛げもあるが、競争のある運動会は駄目で、競争のない運動会なら、いいのだそうである。
奇怪なことを。

運動会は競争に決まっている。ところが、競争嫌いの教員たちによって、全国のほとんどの運動会は、単純な見世物になった。
下手な踊りや組体操と称するマス運動で、まるで新興宗教の示威運動か、某国総書記万歳の祭典ごっこの真似事である。いかにも共産国が大好きで、シナ朝鮮夢の国、と歌った過去のある教員組合のやりそうなことである。

あれでは、子供があまりに不憫である。運動会と聞くと、うんざりして、勉強も手につかず、不毛の日々が続くことになる。
暑い最中、運動場に子供を並ばせて、教員は、いらいらと怒鳴り散らして、まるでナチスである。
その挙句が、品のない踊りのような「表現運動」と称する猿真似である。これでは、怒鳴り続けられ大汗を出した子供も浮かばれまい。

馬鹿の一つ覚えではあるまいに、どの学校も「なんとかソーラン」などと、どうしてこうも、ワンパターンで硬直しているのだろう。

長い間、多くの小中学校では、運動会や体育祭で、「負けた子供の心が傷つく」とかで、すべての徒競走を禁止し、それでも走らせなければならないときは、横一列に手をつないで走らせた。
そんな異常な学校は、今では、さすがに少ないだろう。

あれは、ソ連社会主義教育の猿真似だった。「同和教育」で利権を得た連中の影響だった。
みんな平等だとか、心を大切にだとか、手をとりあって仲良く等々の、空疎なキャッチフレーズは、今でも残っているのだろうか。
不思議にも、ほとんどの学校では、ちゃんと残っているのである。

学校で「競争こそが、進歩の元である」と話すと、みんなが目を剥く。
そんなに怒るな。進歩は、競争の異名に決まっているではないか。
勉強も、運動も、遊びも、結局は競争である。

競争を、教員や親が憎むのは、負けるのが嫌で、あらかじめ煙幕を張るからである。何よりも、競争があると練磨がある。努力がいる。仕事を楽にこなせなくなる。
卑怯である。または、見栄っ張りである。勝つ者への嫉妬である。
素直に、負けるのが嫌だから、競争はしない、と言えばよいものを、正義の味方面して、屁理屈をつける。

世界との競争で、日本が教育で負けることは、国が負けること、衰退することだ。他国に蹂躙される、あるいは滅ばされる可能性が大きくなることである。よく覚えておくがいい。

運動会など、大反対である。あんなものは遠慮なく止めてしまえ。

 

幸せは、遅くまで職場に残ること。人間関係が不幸の始まり。能力並みの仕事をすること。

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職場の人間関係が、すべての不幸の始まりである。

人間関係が、物事を難しくするのは、家庭や企業だけではない。
学校は、人間相手の仕事の典型の一つだが、問題が起こりがちなのは、教員と児童生徒学生との間にではない。その親なんかでは、もちろんない。
教員同士の問題である。同僚間や、校長等との指示の齟齬や虫の居所による。
幸福な学校の教員は、おしなべて幸福であるが、不幸な学校の教員は、それぞれに不幸である。

こう書いただけではピンとこないだろう。分かる人には、即座に理解できるだろう。それが不幸なことであるくらいは、理解できた本人が知っているだろう。


さて、公立学校は、親方日の丸だから、一応は安泰である。些細な瑕疵を指摘されても、一応、なんとかなる。
しかし二流以下の私立学校は、経営が順調なところはいいが、そうでない場合は、困ったことになる。

端的に表れるのは、受験者の減少、入学定員割れである。苦しんで、どんなできない子でも、入学可能にしてやってすら、それでも生徒が数に満たない。

理事会も真っ青だが、それは結局、能天気な教職員も気づく、知る。何を知るかと言えば、もうこの学校には将来はないな、ということである。

学校凋落の原因は、理事会の見通しの甘さ、校長の無能、教員のレベルの低さに原因があるのだが、そんなこと、当人たちは知っちゃあいない。
すべて自分以外の他人のせいにする。不幸の始まりであり、連鎖である。


日本の教員は、世界一、真面目なので、汗水たらせば、それで大丈夫だと勘違いする。
しかし、相変わらずばたばたとしても、効果が上がってない。
この状況を変えるには、教員が、自分の能力の限界を見つけて、仕事の範囲内は確実にクリアできるという実績と自信とを持つべきである。
でなければ、常に不安で、毎日に余裕がなく、自らを疲弊させるだけである。子どもにも、よい影響を及ぼさない。

自信のない教員は、細々した教員根性どっぷりの教員である。いらいらと余裕がなく、時間の使い方が下手で、体力と気力の限界近くまで動き回って、ようやく自らが安心する。 
一生懸命にやっているというポーズを、自分の能力不足の免罪符として、ただ、忙しく疲れ果てる。そうして満足する。

それでは困る。だから、ほとんどの教員を、いますぐ交換せよ、とは言わない。そんなこと、できるわけがない。

「決められた範囲内を確実にこなして、それ以外は関知せず」の意識を強く持たせなければ解決しない。
「できるだけのことをやらせていただきます」では、それはボランティアごっこである。素人である。
「おもてなし」である。東京五輪音頭である。国会議員である。都会議員である。能無しである。

ボランティアは、どこか甘えが出る。

こんなに時間をかけたのだから、これほど気にかけているのだから、ああしたから、こうしたから、と泣きべそかきながらの逃げ口上である。

一生懸命やってくれなくてもいい。
一流の執刀医が、普通どおりやって手術を成功させるほうが、藪医者が懸命にやって患者を死なすよりは、よほどいいわけである。

教員は、医者とは違うと言うのか。
違うものか。

違いは出身学部と収入だけである。
両者とも、人間を相手にして、その人間の将来にかかわる仕事である。
だから、医者に、名医と藪とがいるように、子供に力をつける教員とそうでない教員とがいるのである。その区別をはっきりさせなければ、ピンもキリも一緒にされる。みんな同じに扱われて、挙句、馬鹿にされて、さげすまれ、こき使われるようになる。

教員の能力差は厳然とある。学校間の学力差、子供個々の能力差も、明確にある。
何事も差異があるからこそ、幸福である。みんな同じなら、この世の地獄である。社会体制として、その分かりやすい例を、われわれはソ連やチャイナに見たはずである。しかもその同じは、権力者抜きである。

差異、区別、選択、能力別、競争試験。これが、治まる御代である。
きれいごとを並べ立てて、評価の基準にするのではなく、実際に児童生徒学生に力をつけることができたかどうかが、教員の能力の判断基準にすべきである。

さて、ご存知のように、各学校には独特の雰囲気があって、澱のように沈殿して容易には抜けない。
しかも悪いことに、それは数人の職員で決まってしまう。

同僚が難しい問題を抱えているとしよう。その問題を受け止めて、相手の気持ちに寄り添って聞いてやれば、あら不思議、同僚の悩みはほとんど解決するものである。

相手の望むような返答をしてやると、場合にもよるが、効果は倍増する。
相手の言動を否定すると、極めてまずいことになる。
しかし、今後このような人間関係でいいものかどうか。情緒だけが優先して、変なことになっているのではないか。

会社の同僚同士でも、微妙なのに、教員の場合、学級の子どもや、その保護者に対して、特別な関係が成り立っているので、いっそう相手に寄り添う言動が要求される。それをうっかり破ると、村八分になる。

そんなことにならないように、あらかじめ、仲間内でこっそりと口裏を合わせる。
学校では、学年の担任同士が、学習進度を歩調を合わせることは不文律である。しかし、困ったことに、教員の能力には、違いがある。

子供は今のところ、担任を選べない。担任もまた、児童生徒学生を選べない。これは不幸なことである。
子供も教員も、毎年能力考査を受けさせて、段階別に学級編成したらいい。
教員もまた、その能力・適性により、担当する学級を選ばせればいい。
親も不満があれば、その学級から離れるだろう。
互いが、選び選ばれる関係が望ましい。

情緒が優先して、優れた、または劣った能力を隠して、みんな一緒の仲良し集団では、日本の教育は、ますます闇である。

教員も個別に動くべきである。定見のない管理職や能力の劣った教員に遠慮して、「教職員全体で取り組も」うなんて、都合が良すぎる設定である。

時間があるとかえって仕事が遅い。
時間数の確保とかで、授業時間の計算をやかましくするようになったが、失敗した。国語が1時間足りない、社会が2時間多いだのと、瑣末にこだわる。
銀行の支店が、当日の収支を合わせているとは違う。

実際のところ、プロの教員は時間なんて関係がない。
10の内容を3時間で教えることができる教員もいれば、10時間かけても、内容の3割すら教えることができない教員もいる。

時間数は書類上の表向きでいい。そのほうが、適材適所で実力を出すだろう。時間にばかりこだわると哀れなことになる。
能力ある教員の足をひっぱり、力不足の教員にも無理をさせることになる。いいことはひとつもない。
もっとも、これがねらいなのかもしれないが。

「みんないっしょ」が大好きのお国柄故、レベルを最低限に設定して、みんなでいっしょに、没落しようとするのだろう。
隣村で殺人事件が一つあったなら、その県の全員が犯人だと、決め付けるようなものである。
学校はボルトとナットの製造工場ではない。時間をかければよいというものではない。いやいや、製造も時間が優先するとは限らない。

教員はだらだらと,学校に残るばかりが能ではない。
いつまでも学校に残っている教員は、熱心なのではない、能力不足なだけである。または帰るべき行くべき場所を持たないのだろう。

残るのは、仕事が遅いからである。または、他にすることも、行くところも見つけることができないからである。世間の目を気にして、世間様より遅い時間に帰りたいのか。

そのようなポーズを示したほうが保身に有利だからであろう。

子どもに全力で学問を教える。それが終わったら、既定の就業時間が過ぎれば、さっさと帰ればよい。
学校の電気を無駄に使ってはならない。
人間関係に救いを求めるしかないのである。

文科省のいい加減さと、地方教育委員会の指導主事殿の「権威」

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多くの都道府県では、教育事務所の職員として、教員から採るときに、40代30代よりも、20代を選ぶ比率がうんと高くなってきた。

その傾向が目立ってきたのが、お粗末な学習指導要領の改定時期とぴったり重なるから不思議である。

文部省は、文科省文部科学省)と改名した。
その権威は、全然、ない。ただし、地方の教育事務所及び各学校は除く。ここでは今でも、文科省の諸君は「お偉いさん」である。

文科省職員は、国家公務員採用一種試験(総合職試験)をかろうじて受かったものの、ぱっとしない成績なので、「文科省でもいいか」というような連中が多い。心中は、ルサンチマンでいっぱいである。地方公共団体に「ご行幸」なさったときには、20代やそこらで、生意気にも役職付きで、大いばりであるが、そのくせ、財務省や外務省の同期の前では、うつむいて歩く。
それはそれで、仕方がない。世間である。それにしても、文科省の連中は、あまりに定見がない。そもそもが、教育になんて、全然興味も関心もない連中である。

お話戻って、地方の教育事務所が、指導主事(なんという「ご立派」な職名だろうか。恥ずかしい。何を指導するのか、何が指導できるのか)を、若い教員の中から選んだのは、正解だった。
猫の目のように方針をころころ変えても、順応できて、手懐けやすい。おまけに、中央から、やいのやいのと、形ばかりの書類作成を要求されたとき、徹夜で作業させるには、無理の利く若い者がいい。
「指導主事」の価値は、ますます落ちた。知識見識ともにお粗末である。
指導主事をねらっている教員諸君には、手っ取り早く指導主事になる方法や、要領があるのだが、ここに書くべきではない。先輩から聞け。

文科省は、ほとほと、定見のない集団で、指導要領を変えるたびに、学習内容の程度を、上げたり、下げたりして、現場を振りまわしてきた。見通しのなさは、彼らに国家観がないからで、戦後教育どっぷりで、1946年米兵製「平和」憲法万歳で育ったものだから、当然である。いい加減な人物ばかりである。

学習程度を、いったん下げると、なかなか上げることはできない。壊した皿が元に戻らないと同じ道理である。
「申し訳ございませんでした。すぐにまとまな内容に直します」なんて、教育行政関係者が言うわけがない。失敗を認めると、文科省の先輩の顔に泥を塗ることのみならず、金にならないし、昇進人事に影響する。それだけが、生き甲斐のような連中である。傲慢な面子だけは、健在である。

子どもは自然に成長する。生理的に成長するが、必ずしも知性的に、するとは限らない。
だから、教育は、大人が子供に「一方的に教え込む」ことが基本である。押し付けで、詰め込みで、当然である。
ここまで言っても、分からない人には分からないだろう。
本音では、分かりたくないのである。

国語教科書は汚物の塊。生存する売文屋の文章なんか、載せるな。

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近頃、乗合自動車に乗ることが多い。沿線に大学がいくつもあるので、学生が乗り込んでくる。他の客への迷惑など、お構いなしに、学生同士で大声で馬鹿話をする。
それは勝手だが、その言葉遣いが聞くに耐えない。
内容が幼稚で破廉恥なことは大目に見るにしても、話し方は、なんとかならないものか。

品ある言葉遣いは、幼児でも、できる子にはできる。
まして母国語が一応確立する10歳前後には、美しい言葉遣い、発音、発声、抑揚は、わきまえていて当然である。
それができていないのは、なぜなのか。 

どうせ二流大学の学生だ、と思ってもらっても困る。そう馬鹿にしたものではない。簡単には入れない(らしい)。
そうすると、言語環境というか、国語教育というか、何かの問題があるに違いない。

原因は、近年の腐った国語教科書にあると考えるが、多くの人はそうは思っていないようだ。
教科書はきちんとしたものだろう、ぐらいに信じている。

では、小中学校の国語教科書を、試みに、どこの会社のでもいいから、見てごらん。
あれが、小中学生に学ばせるべき文章かどうか、静かに考えてごらん。
私の言わんとすることが、ご理解いただけるだろう。


近年の国語教科書は、編集委員と称するボスと、その取り巻きと、利益優先の教科書会社の営業とが、結託して、でっち上げた代物である。 
昔、永井荷風は、貴殿の文章を教科書に載せたい、と打診されると、自分ごときの文章を教科書になんてとんでもない、と断ったという。
今の自称、作家というか物書きというか売文屋というか、その連中は、どうやら、荷風先生以上の逸材と見える。

この際だから言っておこう。
教科書は、即刻、一般会社への委託自由とし、各学校が制限なくそこから選択できるようにせよ。
中には、まともな感覚で、名文を選び、内容のある教科書を遠慮なく作る出版元もあるだろう。
なければ、今時のことである。優秀な教員の何人かに任せてみるがいい。パソコンとプリンタとで、瞬く間に、本物の「教科書」を作り上げることだろう。


教科書、特に国語や社会の教科書がお粗末至極であることについて、もう少し話す。

国語教科書に、小中高等学校と、ろくなものがない。大学の自称「教科書」は論ずるに及ばない。あれは資源の無駄である。

さて、どう粗末なのかと言えば、簡単である。あなたが、読んでみれば良い。
駄文の数々が、はたして、強制的に子供たちに読ませるべきものかどうか。
同時代の売文屋稼業たちの文章を、読ませていいものかどうか。

教科書には、すべからく、歴史的に評価の定まった名文をのみ、掲載すべきである。そうしないのは、日教組の教員におもねったり、何某を流行作家にしたてて儲けようとする、出版社の罠である。

現代文は、すでに鴎外、漱石荷風、潤一郎、直哉、敦、由紀夫以下、そうそうたる作品があふれている。すべて物故者である。作品のみで判断できる。そういうもので教科書を編むのが筋で、今生きている売文屋やタレント大学教員の駄文を載せて、いったいどうするつもりだろう。勉強の邪魔になるどころか、害である。汚らわしい。

いわゆる古文も、江戸文学から平安に至るまで、優れた文章が山ほどある。それすら載せないで、何が「国語教科書」だ。
馬鹿馬鹿しくて怒る気にもなれない。
あんなものはすぐさま破り捨てて唾棄すべきものだが、それはそれ、大勢には逆らえない。

教科書は瞬時にすませ、名文集を編んで生徒に配って、それで学ばせた知人がいる。おかげで、生徒たちの成績は抜群で、進学も群を抜いていた。
すべては、何を学ぶか、で決まるのだ。

ついでに言えば、大学入試の国語問題は、クズがくずを出している。
最初から意味不明の悪文を選びに選んでいるので、現代国語の問題は難解だと言うのが、定説になっている。
何が難しいものか。

愚かな出題者の能力と意図とを見抜いて、彼らの想定する模範解答に近いものを、半開きの口の中に、放り投げてやればいいのである。

生徒にはこう話した。
諸君の方が、出題者よりも能力は圧倒的に上である。従って、諸君の答えは常に正しいが、正しい答えを書いても、出題者は自分の能力を越えたものを、間違いとするだろう。だから、出題者の意図及びレベルを見抜いて、相手に合わせて書いてやれ。