ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

百ます計算、日本国憲法の暗唱、NHKテレビ戦略、笑う教育産業。

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ずいぶん以前に、百マス計算だとかで、テレビが騒いだことがあった。すぐに、新聞雑誌、挙げ句にはこの機に乗じて一儲をねらった出版社まで巻き込んで、もともと昔からあった反復習熟学習を、ことさらに新しい教育方法のように喧伝した。
すでに日本全国の学校で、長年営々と続けていたことであって、めずらしいことではない。
よく知られた指導方で、今さら取り上げるほどのことでもない。
にもかかわらず、テレビ番組では注目すべきものとして報道され、NHK特有の妙な宣伝効果もあって、いかにも新しい教育技術のように広まってしまった。

ゆとり教育の失敗が明らかになりつつある頃だったので、テレビ宣伝の効果が増幅した。番組制作者は、今回も、視聴者をうまく騙したのである。地方の教育委員会の「お歴々」も、さして深い考えもなく、テレビに夢中だから、手放しで歓迎した。
教育事務所職員も、テレビにかじりついてばかりいないで、少しは本を読め。自分の頭で考えたらどうか。


百マス計算で名を売った陰山某は、子どもに文章を暗唱させるのに、こともあろうに日本国憲法前文を選んでいる。まともな日本語でないものを、子どもに暗唱させるなんてどうかしている。
憲法なら間違いなかろうと考えたのだろうが、その文章感覚を疑う。

話が飛ぶが、暗唱は古典に限るのである。
「枕方丈徒然平家が筆頭で、次は百人一首である。現代文では、鴎外を以て範として、他に、一葉敦直哉までだろう」とは、四十年以上前から、古典の暗唱学習を徹底し、学力を向上させた教員の言である。公立小学校の学級で、この程度の実践は十分に可能である。
何を読ませるかについて、名文とそうでないものとの判断ができない輩には、教育に暗唱が必要云々と言う資格はない。


そういえば、音読や暗唱に関して、「声に出して読みたい」とかの、短文を寄せ集めた本が売れたこともあった。安っぽいガイドブック風情の簡易本が、今さら注目されるのは、日本人として、いかにも恥ずかしいことである。
原文に当たればいいのである。読書の中身、教材の中身まで、誰かに教えてもらわなければならないのか。だったら、とことん、そうしてもらえ。

私はこれをハウツー本世代「ぴあ世代」と呼ぶことにしている。
自分で考えようとせずに、何でもお手軽に、他人様から教えてもらいたい。これは、ニュースキャスターの口真似が大好きな性質と同根である。
上記の「百マス」にしろ「声に出して」云々にしろ、みんな他人の発想の口真似である。オリジナリテも構想力もない。

小中高の教壇の経験もない、大学教員ごときが、暇にまかせて書きとばしたものを、現場教員がわざわざ買って読むほどのことはない。笑って、放っておけ。

そう言えば、某テレビ局の子供テレビニュース云々に関係していた職員が、なんでも屋となって解説している本も、よく売れたことがあった。
自分で学ぼうとせず、お手軽に解説してほしいのである。まさに、テレビ病である。

あれもこれも、出版社の罠である。古人は、出版は虚業、いかさまである、と喝破した。儲けるためなら、なんでもする。アイデアが勝負である。
ファッション雑誌アンアンの真似からはじまって、すぐにアンアンを凌いだノンノの例もある。恥も外聞もない。

話が長くなったが、教育関係の出版社では、長年、小学館明治図書が競っていたと聞く。学研も参入した。文芸春秋その他の社も、負けてはいない。
明治図書は法則化運動とかで、いちどきに稼いだが、今は下火らしい。小学館は、マンガや雑誌でも稼いでいる。ついでに愛国商売にも加担した。
出版社とマスコミとは、常に話題を捜す。捜すに事欠いて、無理矢理作る。

教育はもっと地味で忍耐強いものである。せめて現場の教員だけでも、流行に安易に乗らずに、地道に授業をしてほしいものである。

しかし、肝心の国語教科書があれでは困る、と知人が言う。

義務教育で使用する国語教科書の文章がひどい。ひどすぎる。
気品、リズム、内容ともに駄文としか判断できないものを、平気で載せている。
試みに音読してご覧なさい。聞くに耐えない。

十年前より二十年前、二十年前よりも三十年前。教科書は古いものほど、ちゃんとした文章が載っている。

文章がいい加減で、意味不明の言葉の羅列となり、文章の気品が等閑にされ出したのは、いつの頃からだろう。
世間で作家と呼ばれる連中のだれもかれもが、岩波調の翻訳崩しになってからだろうか。
大江健三郎のように、サルトルの下手な翻訳もどきの悪文でも、作家として認めらた頃からだろうか。
日本語は破壊されたのである。

教科書が、学校現場で採択されるには、教員になじみの作品を載せるに限る。このように教科書会社は考えた。今の教科書の質の悪さは、そのまま教員の質の悪さに通じている。

笑えるではないか。
コンビニで、そこら中並べてある漫画雑誌の付録のような、文章感覚の鈍い、未熟な、評価の定まらない、品のない、リズムのない、およそ思想の片鱗だにすらない、時間に追われてかろうじて吐き出したゲル状のような文章。それを、教科書の中に、子どもが学ぶべき文章として載せているのである。
日本文化は、軽蔑され、貶められたのである。

教科書採択制度にも問題がある。教科書の選択を、教育事務所や現場の教員任せにしたのがそもそも大失敗である。
歴史と伝統を無視した戦後教育で育った人々に、国語の伝統を受け継いだ文章作品が選べるわけがない。そもそも文章感覚が育っていない、持っていない、必要とも思ってない、人々である。

教科書会社は、今風の軽い文章ばかりを載せたがった。そして、そのような教科書は、目論見どおり、次々と採択された。
露伴一葉漱石鴎外直哉敦近くは由紀夫。これらが教科書に掲載可能な文章の最低限のラインである。
以前は、少なくとも鴎外直哉は小学校で習った覚えがある。
平家徒然も教科書に載っていたし、当然のように暗記した覚えがある。

今の国語教科書にあふれているリズムもなければ、内容もない、粕漬けのような文章を読ませても、子どもが読書好きになるわけがない。時間の無駄どころか、むしろ害ばかりである。
たまに読んでいるのは、近頃流行の底の浅い翻訳小説か、タレントの語り下ろしといった紛い物だ。
日本語の名文は、どこへ行った。

 

 

ハリーポッターよりも江戸川乱歩を読め。古い新書は、漫画本の代わりになる。

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教養というと、なんだか高尚な感じが、少しはある。
辞書にも「単なる学殖・多識とは異なり」云々と、書いてある。
しかし、もっと手近なところで考えよう。

教養も、読書なしではその土台がない。
ならば、教養とは読書のことでもある。

かつて十数人の教育系大学院生と雑談した折、レスタースミスの『教育入門』について言及すると、院生たちから「それは何ですか?」と問われて、驚いたことがある。
生意気盛りの学生にとって、スナックみたいにお手軽な岩波新書の本である。これを教育系の院生が読んでいないなんて、あり得ないことであると思いたいが、あり得るのである。

今どきの連中は、PCやスマートフォンのインターネット、テレビや映画や音楽と、なんでもやりたい放題で結構だとは思うが、もう少しは、本を読んだら、どうだろう。
レスタースミスごときが偉いわけでは全然ないが、仮にも、昭和期に独走した天下の「岩波」の教育本である。どうせ数十分で読める漫画のような、ぺらぺらの新書である。読んでおいて損にはならない。

ところで、話は変わるが、日本人の英国好きにも困ったものである。かつて、ハリーポッターとかいうシリーズが売れたという。何のことはない、荒唐無稽な学園ものの翻訳である。映画と共謀して、金儲けの上手なバイキングである。
あれは一応活字だから、子どもが読むのを見て、親は喜ぶのだろうが、日本語の文章として、若い人が読むべき本かどうか。
どうしても読みたいのなら、英語の読み取り練習のつもりで原文で読んだらどうか。

小中学生に、鴎外漱石をすべて読め、とまでは言わないが、せめて乱歩の少年探偵団シリーズぐらい読んだらどうだ。
あれは、少なくとも立派な日本語で書いてある。だから、雰囲気までもが、ちゃんと伝わってくる。
小学生必読の本といえるだろう。乱歩の少年探偵シリーズを10歳までに読み終えた子は、一応の文章を書く力がついている。
げに有り難や、乱歩先生。

ともかくも、知的活動の源泉は、言葉である。
言葉で考えて、言葉で表現する。日本人ならば、日本語・国語が知力の土台である。
国語が基本にあって、外国語なり数学なりの能力が伸びるのであって、その逆は、あり得ない。それでもあり得るのは、天才の域になるので、論じても仕方がない。

気になるのは、国語ができる子どもの多くは、どちらかといえば、こつこつ派が少ない。彼らの多くは、他の教科を熱心に学習しない。不勉強なくせに、読書好きで屁理屈のうまい子供が多い。
これは、国語は才能によるところが多いからである。

算数・数学ができる子と、英語ができる子は、重なることが多い。
時間をかけて学習する癖がついているからで、英数とも、勉強にかけた時間と実力の向上とが、比例する。頭の良し悪しとは、関係ない。
一方、国語は上位のレベルになると、ほとんど才能がものを言う。下位の問題は、誰でもできるので、差がつかない。

たとえば、高校の授業では、国語の得点を伸ばすことがもっとも難しい。
数学や英語は、結局、努力すればなんとかなる。
国語は長い間の蓄積、読書量、遺伝形質その他が関係する。
要するに、付け焼きが通用しない。少々の時間をかけたくらいでは、成績が急変することなど、あり得ない。
しかも国語の授業は、方法として確立していない(他教科が確立しているというわけではない。だが、国語に比べると、何をどうするべきかが、明確である)。
国語科でつけるべき学力へのイメージが、教員によって違いすぎる。授業技術の上下、子供に与える知的雰囲気など、担当教員によって天と地との開きがある。
何を、どのように、どの程度まで、学習させなければならないかを明確にしなければ、効果的な授業が成り立たない。
だから、国語の教員は、よほどの実力が必要だ。

さて、日本政府は、今もこれからも、国語を軽んじて、斜陽のアメリカ語を重視する政策をとるつもりである。
これだけでも、売国奴の集まりだと思われかねない。
文科省も財界も、日本亡国の輩と非難されても、仕方がないだろう。

AKB48「願いごとの持ち腐れ」ミュージックビデオは、いかがなものか。

 

 

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昨日、偶然に、AKB48の曲、「願いごとの持ち腐れ」のミュージックビデオを見た。
この曲がいつごろから流れているかは知らない。だが、一見して、この音楽ビデオは危険だと感じた。

設定は、廃校となる公立小学校での色々であるが、そもそも、この場所や話は全て架空で、登場人物も子供を含めてすべて芸人だろうと推測する。

そうでなければいけないのである。当事者である、子供や現職の教員が、販売されるCDやDVDの宣伝をするわけにはいかない。

しかし、ミュージックビデオは、なかなかの現実感を出している。子供たちの歌う姿に涙をぬぐう親のカット、子供のメッセージを読む姿、教員たちのたたずまいなど、リアル感いっぱいで、多くの人は、これは現実かと勘違いしてしまうのではないか。
最初の場面での、鏡山小学校の閉校のあれこれを説明をする教員役の演技も、なかなかである。(現実に、浜松市立鏡山小学校は閉校したようだ)

どうも後味が悪い。


かつてAKBは「恋するフョーチュンクッキー」で、全国の自治体や会社組織を巻き込んで、ダンスの動画で話題を拡散した。
興行主の秋元氏の才は、抜きんでている。

今度は、廃校もののドキュメント風作品で、誰もが持つノスタルジックなセンチメントを売り出した。
NHK全国音楽コンクールの中学校課題曲にも決まっているという。
歌いやすく簡単な曲であるし、AKBの曲だから、中学生も抵抗なく、むしろ喜んで歌うだろう。

全国の小中学校の音楽教員が、目の色変えるだろうことは、容易に想像がつく。小学校の学級担任なんて、朝の会で毎日、子供に歌わせかねない。
学校特有の甘いロマンと、テレビやCDの宣伝とが、微妙にマッチングしてしまうのである。

しかし、しかしながらである。
大学教育を筆頭に、教育ビジネスは沸騰している。教育は、誰もが無視するこのできない巨大な集金場なのである。
以前、学校経営は、無難な商売だと書いたが、大学や高校のそれは、金まみれだから、まだいい。
義務教育期の小中学校までが、ビジネスにあからさまに、利用、活用、引用されることは、望ましくない。

AKBグループは、日本発の、世界に通用するビジネスモデルである。日本の文化、であるかもしれない。
しかし、小学校を題材に、さも現実風に、MVを作ったのは、やりすぎである。ターゲットは、むしろオブラートに隠していた方が、いいのである。

少子化大賛成である。日本は人口が多すぎる。学級定員を減らしても無駄である。

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ここを見る数少ない人は、もうお気づきだろうが、以前の記事をすべて削除した。
文章が、飛んだり跳ねたりで、分かりにくいかもしれない、と考えたからである。少し手直しして、順々に出そうと思う。


さて、

マスコミや役所らが、少子化がまるでいけないことのように喧伝するが、為にするためのポーズである。少子化は良いに決まっている。
日本の国土から言えば、日本の教育事情から言えば、少子化は良いに決まっている。

あれはいったいなんだろう。
少子化を問題視することによって、だれが得をするのか。誰にとって損なのか?

かつてチャイナの毛某主席とやらは、世界を共産化するにあたって、人海戦術をとった。
産めよ増やせよで、チャイナ人を増やして、弾丸の代わりに突撃させようとした。
それが、すぐに、人口過剰となって、一人っ子政策をとらざるを得なくなった。


一人当たりの生産性が大きくなれば、人口は、少ないほうが良い。
論ずるまでもないことである。
先進国では、子どもはそんなに増えない。むしろ、適正価格というか、適正人口まで減り続ける。自然の流れである。
各家庭が一人の子どもでいけない理由はない。全家庭が子どもを持たなければならないということも、なんだか変である。

そのくせ、一学級当たりの児童生徒数を減らすという。
減らすに及ばない。学級人数を減らしたところで、良い教育がなされる確証はない。肝心の教員が教員である。満足な指導なんて、期待してはいけない。

日本に必要なのは、むしろ人口を減らすことである。
日本の国土面積や技術力、教育程度等を考えれば、今の半分以下の5千万人でも多すぎる。3千から4千万で十分ではないか。

いずれ地球上の人類は少しずつ減るに違いない。生活や教育程度が向上すれば、子供は少なくて良い、むしろ少ない方が幸せなことくらい、誰にでもわかる。
国と国との壁もだんだんなくなるだろう。大国が小国を飲み込んで、人種の混合が進むだろう。
移民反対の掛け声も、一時の流行なだけで、本心は安い労動力を仕入れて使役したいだけである。風向きが変われば、何を言い出すか、わかったものではない。
アメリカもオーストラリアも、欧州各国も、移民を排除すれば、何も残らない国々である。時々の勝手な都合で、移民の賛否が変わるのである。
しかし、日本は、いついかなる時でも、移民を受け入れてはいけない。在日外国人を、一定期間たてば、一切拒絶してもよいくらいである。
狭い国土に人が多すぎる。


さて、くどいようだが、少子化によって誰が一番損をするのだろうか。子供が増えることによって誰が得をするのか。
行政や、マスコミという名の洗脳機関を、裏で操っている連中の影が、ちらつくのではあるまいか。

 

 

 

ぱるる、島崎遥香が面白い理由。自尊心の塊。親は、我が子に全面的な愛情を注ぐべし。

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AKBネタをもっと書いてくれと、かつての教え子からの催促である。なぜ、教育批評が「ぱるる」なのか、とも問われた。

雑文の表紙に「ぱるるの」と題したのは、身内が「明るいぱるる」だの、「ガッキーの姉妹」だのと、散々言われたので、興味を持ったのである。

郵貯もかつては「ぱ・る・る」とかの通帳を出したことがあった。今は知らない。


さて、ぱるると呼ばれている島崎遥香だが、なかなかよろしい。
どこがよいかといえば、芸人として大切な容姿容貌が水準をクリアしている。しかも、太っていない。

芸人たるもの、太ってしまっては、論外である。
顔も身体も、見た目が、粋で色っぽくなければならない。
近頃は、整形手術が、芸人のパスポートになっているようだが、作りものには無理がある。素材が、さほでないのに、外科手術で手直しを続けると、芸人のほとんどに見られるように、化け物になる。
素材が良くなければ、そもそも芸人の入口に立ってはならないのである。

AKBの管理者である秋元某は、島崎の根性が予定調和ではないところを評価した、と言っていたようだ。客に媚びないところがある。塩対応だそうである。
そうかもしれないし、それも、売るための芸かもしれない。
自分への過剰な自信があるようだが、それも、芸人にとって必要なことなのだろう。露出欲と自尊感情の塊でもあるのが、芸人だ。


話は変わるが、親は子供のすべてを信頼して、際限のない愛情を、注がなければならない。子供の自尊心を育てるためである。
自尊心の強い子供は、世界がひっくりかえっても、自分は「価値ある自分」であると信じて、揺るがない。
フロイト小林秀雄もそうである。
例に挙げた人物が唐突と思うだろうが、わかる人にはわかるだろう。


以上は、前にも書いたが、少し付け足した。

 

 

AKB48は日本の文化である。AKBグループは、個人の競争を肯定する、理想の学校である。

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AKB48を、私は憎からず思っている。
むしろ、日本のオリジナルな文化のひとつとすら、思っている。
かつて、次の文章を書いた。


AKB48という「アイドルグループ」がある。歌って踊っておしゃべりする中学生から高校生くらいの年齢の集団である。
こんなことを書くのは他でもない。少し因縁がある。

以前、秋葉原を歩いていると、大型量販店ドン・キホーテの前に列がある。列の最後尾の学生らしき人に、何かあるのか、問うと、AKBのチケットを買うと答えた。それは何だというと、AKB48という女子アイドルグループだと言う。

店内で買い物をして店の外に出ると、チケット売場の前に人はいない。今は8階の劇場の入り口がチケット売り場だが、当時は、ドンキの入り口の横に小さな売店を設けてあったような気がする。あるいは記憶違いかもしれない。
ともかく、売り場の男性に尋ねたのである。
「チケットまだありますか」
「ありますよ」
で、買ってみた。

後はくだくだしいから省くが、当日でも簡単に買えたのである。
ショウそのものは、中学か高校の文化祭の出し物に類似したもので、歌ったり踊ったり、たわいもないことをしゃべったりする。
客は若い人が多く、元気がいい。合いの手や一種の叫び声が面白い。一番年少だ、と話していたのが、渡辺麻友で、このときは誰が誰だかわからなかったが、後で知った。
秋葉原に出るたびに3度か4度見たような気がする。舞台もそうだが、何より観客の反応が面白かったからである。


さて、話は現在に戻る。
AKBには競争がある。入団するのが大変で、うまく入ることができたらできたで、色々と競争が続くらしい。
中学生や高校生で入団するのだから、学校の勉強どころではないだろう。歌と踊りの練習やイベント等で忙しいだろう。
大人相手である。世間の厳しさに、十代で直面する。ずる賢くもなるだろうし、人気が出て当たれば、金も入って、親孝行である。

AKB48は、新しい学校と見ることができる。生存競争むき出しの世界である。容姿容貌、能力と努力、そしてほんの少しの才能とが、彼女らの武器である。
これほど完璧な学校はないのではないか。
商売と割り切ってしまえばそれまでであるが、思うに、小中高校大学と商売でないものはない。義務教育はまだしも、高校や大学、大学院など、全身これ金儲けの塊である。
AKBの興行主である秋元某氏は、自分は校長のようなもので、AKBは生徒だと、言ったそうだ。
なるほど、厳しく才能がある校長なら、それはそれで、効果的な「教育」ができたのだろう。
芸能だけではなく、学業の世界にも、AKBグループのような、遠慮会釈ない競争とその結果の公示と金銭的多寡とを得ることのできる学校。子供のやる気と努力と多少の才能とで、明確かつ公然と競争ができる学校を、望むのである。
そんな学校が、全国の各都市に一つや二つはあっても、いいのではないだろうか。