ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

教員と生徒、新学期は出だしが大切。自己開示は難しいぞ。

 

 

 

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子供にとって、新学期は、最初の一週間が大切である。
というのも、子供たちは互いを値踏みする。特に学業成績で値踏みする。
いい男いい女で価値を判断するのは、三流以下の学校で、あれはドラマの見過ぎである。

もちろん、外見だけが取り柄であるかのような子供も、いるにはいるが、ライバルが多いので、大変である。
平成生まれと、それ以前の昭和生まれとは外見が違う。これは大げさでもなく、顔がいい、姿格好がいい。稲垣足穂流に言えば、以前は石炭の中に、ダイヤがあったが、今では、おしなべて白砂である、とか云々。つまり平均が上がっている。化粧も上手だ。

さて、学期の初めは授業でも積極的に理解を示し、運動社交と友人の輪を広げた方がいい。これは子供本人にとって難しいようだが、そうでもない。

ここから、子供向けというより、教員向けの話となる。

子供が、最初の一週間に、自分の自分であるところのものを、学級で、出しやすいかどうかは、担任教員次第である。
教員がまず、自分から自己開示する必要がある。ありていにいえば、ぶっちゃけハチャメチャ自己露出がなければ駄目である。
その瞬間から、学級は開かれる。担任教員からして、そうなんだから、子供が逆らえようはずがない。

とまあ、書くと簡単だが、果たして、教員である君に、それができるのかどうか。
難しいと思うだろう。できないと思うだろう。地道に、悩みながら、半年かけて、学級を作るしかないと考えるだろう。
その間に、他の教員は、はるかに先を駆け抜けていくかもしれない。

こんな話がある。
二十代の教員が、中学2年生の担任になった。本人は意欲満々、熱中先生、GTO気取りである。ホームルームの時間に、自慢のギターを持ち出して、子供らの前で、歌を歌う。 一緒に歌おうなんて、叫ぶ。

さあ、どうなるか。
ご想像通りである。
一日目、二日目まではまあいい。三日目からは、無視される。「いいカッコシテ、恥ずいんだよ」などと子供から評される。
その教員は一挙に落ち込んだ。ノイローゼになった。

この程度の、子供の反応で、落ち込むようなら、最初から、無駄なパフォーマンスは止した方がいい。

子どもを圧倒するには、教員には圧倒的な生命力がいる。それは大声を出すことや有形無形の威圧ではない。教員自身の自信と教養と体験である。

難しいだろう。無理かもしれないと思うだろう。

左様、君には無理かもしれない。いやきっと無理だろう。
さあ、どうするのか。どうすればいい。
その気持ちが、新学期を迎える子供の持つ気持ちでもある。子供を知るとは、そういうことだ。

 

 

戦々恐々の始業式。「当たりの担任」を選ぶことができるかどうか。

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子供が、担任教員から一番影響を受けやすい時期は、小学校の高学年である。次に中学校、小学校低学年、高校、大学と続く。
大学や大学院の担当教員に感化を受けたというのは、そう言った方が保身につながるからで、実際は、無関係に等しい。

さて、4月には小学校高学年の子供と親にとって、最も恐ろしい時期である。
担任教員の発表があるのである。
めったにないことだが、あたりの教員に当たれば、それは「大当たり」で、子供の人生が変化する可能性がある。

中学校では、教科制なので、担任は、いくつかの教科担当のうちの一人だから、大したことはないが、朝と下校時のホームルームがある。このとき、担任教員の影響を受けてしまうので、やっぱり、中学校でも担任教員の当たり外れはある。

小学校高学年となると、目も当てられない現状となる。
「外れ」が怖いのではない。外れ教員を怖がっていたら、外れが圧倒的に多いのだから、そもそも学校教育が成り立たない。
当たりの教員の子供たちがあまりに得をして、そうでない子供との、格差が広がることが怖いのである。その怖さを親が感じ、子供が感じ、教員間でも感じてしまうことがあるからである。

これは保護者間の確執を生むのみならず、子供の間にも、微妙な優越、損失、劣等などの感情が生み出されることがある。

不平等はこの世の常である。みんなが同じ匙を銜えて生まれたわけがない。
就職や人事その他あれこれで、大人社会では運不運、不平等、不公平は、日常のことである。しかし、子供にとって、学校の担任決定は、自分たちが関与しないところで、自分の運命を他者により勝手に左右されてしまう最初の試練と言えるだろう。

どちらにしても、気分の良いものではない。

新学期の出発で、すでに不条理を嘆かなければならないくらいなら、せめて、担任は、子供本人が、くじ引きで決めることにしたらどうだろう。これなら、新入学生であれ、進級生であれ、外れを引いたとしても、少しは納得できるのではないか。

学習指導要領は文科省の宣伝ビラ。アクティブラーニングだと。日本語で言え、日本語で。

 

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次の指導要領改定案、今回のキャッチフレーズは、アクティブラーニングである。笑うしかない。

お暇な文科省が、恒例の学習指導要領の改定ごっこである。他にやることがないのだろうか。
教育は人類の知識遺産、我が国の文化伝統を、次代に受け継ぐことである。
小手先の変更で、どうにかなるものではない。

改定指導要領の「目玉」が、アクティブラーニング。日本語で言え、日本語で。

何様じゃあるまいし、教員に一体何をやらせたいのか。今の教員連中のほとんどが、今以上(または今以下)いったい何ができるのか。少しは頭を冷やしてからモノを言え。

文科省の職員も、本音では、ほぼ10年ごとの指導要領の改定が、下らないことを知ってはいる。知ってはいるいるけれども、給料相応に、仕事しているふりをしなければ立場がない。性根が、自分の立場だけを考えて生きてきた職員どもである。
まっとうな神経の持ち主なら、気付くはずだが、果たして、落ちこぼれ官僚予備軍の文科省職員には、気付く感性すら欠落しているのか。いずれにせよ、金のためである。くどいようだが、働いているふりをしなければならない。ご苦労である。


人材は一朝一夕に育つものではない。
人材育成の基本は、古典学習以外にはない。母国の言語と歴史以外にはない。人は言葉で思考する。頭脳とは言葉のことだ。歴史も、思想も、言葉である。
だからといって、古語の語尾変化をすべて覚えろ、というのではない。日本の歴史を読め、古典を読め、と言っているのだ。
古典を読むことによってのみ、わざとらしく急に流行りだした「AI時代」云々にも、対応できる。その嘘を見抜くことのできる源がある。

文科省に言っておく。
軽薄な「思考力判断力を重視した学力の質的転換を図る」なんて、三流学校の経営目標ではあるまいに、寝言は寝て言え。

聖徳太子を厩戸王と呼ばせてグローバル化に推進。さすがの文科省である。

 

 

 

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文科省が、次の学習指導要領で聖徳太子の名前を変更するという暴挙に出た。
国民の多くから反対されそうな情報を得るや否や、さっそく手のひら返して、変更を取りやめた。相変わらずの小心な役人根性である。

一体全体、学習指導要領なる代物は、文科省の存在意義を宣伝するためのプロパガンダパンフレットである。かつて役に立ったことが一度もない。常に事態を悪い方へ向けていく怪しげな努力の証である。
この一点をもってしても、文科省が、不要である以上に害悪であり国民の敵であることの証左であろう。

とここまで言うと、呆れられだろうが、ここまで言わなければならない。
それには理由がある。

聖徳太子を「厩戸王」に変更しようとした、その心根である。そこには、朝鮮やシナの意向が臭う。その意向に沿って動こうとする、文科省関係者の哀しく卑しい現実がある。
文科省は、日本国民の敵であり、無益どころか害悪の巣であること、NHKとよく似ている。

意見公募(パブリックコメントだそうな)で、味方してくれるだろうと考えた教員(教員といえば左巻きだから、聖徳太子を苦々しく思っているはず、と文科省は予想した)にまで、変更を反対されたものだから、諦めたのである。

聖徳太子は、ともかくも、日本の人物像として、その中心にある。その名称を、かくも下品な呼び名に変えようとするなんて、日本国民にあらざるものである。
文科省担当者が、シナ人か朝鮮人またはロシアかアメリかその他の手先であるかはつまびらかではないが、ともかくも、日本人ではないだろう。


歴史は、心である。神話である。
それは信じようとするから信じることができるものなので、歴史を試験管の実験と同一にしてはならない。
歴史は文学である。
文学は嘘八百ばかりではない。その逆に、真実ばかりでないことも、当然である。
しかし、文学には、日本国民の国民たる所以が表現されている。

だからこそ、文科省聖徳太子を憎むのである。グローバル化という、日本を日本でなくすための政策には、国民意識は、不都合だからである。聖徳太子以下歴史の事々を、下卑たものにしておけば、やがて、日本は日本でなくなるだろう。
それを文科省は、画策するのである。

高校生が雪崩で死亡したのは、自己責任なのか。教育委員会、学校の、過失致死罪の構成要件。

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栃木県の高校生が、「登山講習会」で、雪崩によって死亡した。
これはいったいどういうことだろうか。

講習会は県体育連盟が開いたものであるらしい。

高校生が講習会に参加し、そこで死亡したのであるから、業務上過失致死である。県教委の責任は免れない。
ビーコンも持たさず、十分な危険認識もなく、講習を実施した。

これ以上はくだくだしいから、書かないが、前に広島宮島のホテルで、島根県の小学生が修学旅行中、ホテルの風呂で溺死したことも、結局、責任はあいまいなままに終わって、忘れられそうである。

今回の「事件」も、すぐに忘れられるだろう。マスコミが連日騒ぐのは、「今」の話題で、利があるからである。他からの利の提供があれば、すぐに切り替える。話題を切り替えるために、旬の話題で無駄に大騒ぎするのである。それがマスコミ稼業のやりかたである。

さて、高校は義務教育ではないから、教員も学校も、教育事務所の連中も、日々の教育活動に油断がある。すぐに甘える。
体育系の連中は、特にその傾向が強い。悪天候なら、かえって、元気が出て、強行する。少々のことで中止するんじゃない、これが訓練だ、とかなんとかで、子供に、無理をさせる。

前にも書いた、マラソン大会がそうで、子供の体調や心臓麻痺の可能性なんか、考えない。
雪崩の危険性なんか、考えない。どんどん強行する。
「この雪では、雪崩の危険性があると思います。僕は棄権します」なんて、講習会の途中で、高校生が言えるわけがない。
学校関係者は全責任を負うべきである。


しかし、しかしである。子供は山登りが好きで、参加したのではないだろうか。
登山は危険な趣味である。登山は、絶命の危険と隣り合わせである。子供ながらに、それは知っていたのではないか。知っておくべきではないのか。
雪崩による死亡事故は、教育委員会、学校、教員による、高校生への過失致死が構成される案件である。
しかしながら、登山には、常に、こういった危険性があることを、親子ともども、知っておくべきであるし、知っていたはずであろう。

学生サービスが悪すぎる都内の「有名」私立大。教職員には最高、学生には最低の待遇。

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日本の各大学は、少子化に伴う学生数の減少と、大学そのものの価値とが問われるようになり、今後ますます経営が厳しくなる。
数少ない消費者であり、購買層である新入学生の獲得のために、競争しなければならない。

地方大学の多くは、いち早く経営を見直して、消費者サービスに努めている。
その一方で、首都圏の大学は、あまりに知名度に頼って安逸を貪り、学生の便宜をはからず、能無し教員どもを高給で雇って、お手盛りの快楽に酔っている。

天誅を下してやりたいところだが、その力がないので、せめて、ぼそぼそとつぶやくのである。


東京にはうんざりするほど多くの大学があるが、官立の東京大、芸大、工業大学を除くと、他の私立学校は、環境がよろしくない。
東京芸大の音楽の授業は、学生は半ば雑談に終始し、眠たげな様子だったが、それでものんびりした雰囲気があって、涼とした。しかしこれらは、例外に属する。


私立大学はサービスが悪すぎる。
例をあげると、おそらく日本で一番古い歴史を持つ○○大学である。知名度をいいことに、教職員には最高の待遇をする一方で、学生には最低とすら言える待遇を強いている。
学生食堂、図書館、学生の勉強コーナー、何一つ満足できるものはない。特にひどいのが、図書館で、あれはもう大学のそれではない、中学校並みの規模及び管理体制である。
ここまで学生へのサービスを忘れ、だらだらと学校経営を続けている大学は珍しいのではなかろうか。日本の権威と深い関係にあった学校であることを、利点としたのだろうが、それだけで、やっていけるほど、大学商売は能天気なものではなかろう。

新宿のマンモス学校は、以前書いたので、三田の学校の方を言う。
創立以来の商売堅気なので、学生へのサービスが、利に聡過ぎる。金持ち相手の方針なので、あれでは学生の活力が失われるのではないか。卒業生のネットワークも、いつかは力が尽きる。
もっと、学生のための「授業」に力を入れることはもちろん、どうすれば、「勉強していただく」か、「おかしくならないように」(校風になじまず、中途で新宿に代わる者が少なからずいる)するか、努力を要する。商売に強いのならば、今ここにいるお客様のために、本気で汗を出すがいい。


さて、言いたかったのは、こんなことではない。
「地方から東京に子弟を出させるのは、得策かどうか」についてだが、また書く。