ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

家庭内暴力、不登校、ひきこもり。原因は何か、解決策はあるのか。

f:id:paruru236:20170216205733j:plain

家庭内暴力とひきこもりと不登校は、一セットである。
その原因は、子供が学校で不具合を生じているからである。

どのような不具合かといえば、当該本人の居場所が教室の中にない。学校にいても、自分が、常に疎外され無視され、全然楽しくないのである。
そこで、家庭に逃げ込むのだが、逃げ込んだだけでは、自分の表出欲が満足されない。だから、肉親に当たり散らすのである。自傷行為もあり得る。
まことに困ったことで、言うも哀れ語るも哀れなわけだが、それを救える人は、担任の教員である。
救う方法は、簡単ではあるが、誰にでもできる芸当ではない。
ここに方法を書かない。書きたくない。

多くの教員にできる芸ではない。だから、ある種の担任教員は本当にありがたい存在で、足を向けて眠るような相手ではない。


さて、私は大学教員を特に憎むものであるが、理由はこれまで散々述べてきた。私の雑文を根気強く読んだ人には、もうお分かりだろう。

小中高校の教員は大学教員とは違う。
高校は中途半端だが、それでも教員である。小中学校の先生方は、まぎれもなく教員である。
小中学校教員は、その資質能力に大小高低種々あるが、概ね、善人が多く、多くは凡庸だが、稀に「当たり」に当たることもある。
凡庸でも、子供の勉強を邪魔しなければ、まだ可としよう。

子供の社会は、大人から見れば、些細なことでも重大である。人間関係がすべてであること、大人社会と変わらない。
職業人が職場内の人間関係で自殺すること、日常茶飯事であるのはご存じだろう。
子供だけが例外なわけがない。


本来、人は引篭る存在ではない。他人との交わり人の中で、生きるべきものである。
なのに、学校が嫌だという。行きたくない、誰にも会いたくない、ほっといてくれ、と言う。
これは、心の叫びの裏返しで、学校に行きたい、多くの人と交わりたい、楽しく語りたい、学びたい、そこで自分を発揮したい、という本音の、裏返しにすぎない。

さあ、そこで担任の先生の出番である。
ひきこもりや不登校は、担任教員によって、99パーセント解決できる。できない1パーセントは、子供に重度の精神病が発覚した時である。しかし、重度であるならば、そもそも引きこもり現象等と違和感が見えるはずで、病院と専門医の出番である。

つまりは、ひきこもりは、担任教員によって完治できる。
その方法は、書かない。書きたくない。
ただ、君が現役教員ならば、この事実を知っておくがいい。不登校、引きこもり、家庭内暴力の真の原因は、教室内の人間関係である。それ以外には、ない。

校内マラソン大会で高校生死亡。体調無視で長距離を走らせるなんて、過失致死または故意殺ではないのか。

f:id:paruru236:20170216205733j:plain



ほとんどの高校では、この寒空に、「校内マラソン大会」を実施して、無理やり子供を走らせる。
校内でする場合もあるが、多くは近隣の大規模公園や公共の競技施設等で行う。
2月はそのピークで、日時と場所によっては、数校が重なることもある。

日本の高校教員は、子供に長距離を走らせるのが、お好きである。身の程知らずの教員根性で、子供に精神鍛錬をするつもりだろうか。

普段、満足に運動もしていない子供らに、とってつけたように、長時間、走らせるなんて、拷問であろう。あるいは過失致傷、場合によって過失致死、もっと露骨に言えば「故意ある殺人」にならないか。

どういう加減なのか、テレビや新聞のニュースでは、話題にすることが少ないが、毎年、高校のマラソン行事では、高校生が死んでいるはずである。

身近に見聞するところでも、すでに二人死んでいる。両方とも、裁判に至らなかった。色々と手を打ったのだろう。

詳細は避けるが、あれは教員の過失である、と知人は言う。
子供の顔色の悪さ、当日の体調管理が不十分なことを、教員は気付くべきである。

学校行事は、進学校になればなるほど、子供にとって、休むことがためらわれる。まじめな子ほど、熱心に参加する。連夜の勉強で自分の体力が落ちていることがわからない。少々の咳や熱でも、無理して出る。途中で棄権もしない。

マラソン当日は、教員が、コースのいくつかのポイントに立つ。子供を見守る、という名目だが、子供の体調なんか気にしていない。「もっと、がんばれ」「遅れてるぞー」とかなんとか、ほとんどが叱咤激励である。急に足がつって転倒でもしないかぎり、子供から棄権を申し出ることのできない雰囲気である。

ほとんどの子供は、無理をする。生命の限界まで無理をする。
そこは若くて元気な盛りである。どうやらこうやら(怪我もせず、または死なずに)、ゴールにたどり着くのである。
若い子供の持つ体力と、その運の良さに甘えてしまって、教員団は、子供へ無理強いをさせていることが、わからない、わかりたくない。
だから、子供が死ぬ。

本当に、死ぬのである。
多くは、心臓麻痺で、その場で死ぬ。あるいは救急車で運ばれて搬送先で死ぬ。

この事実を、世の親は、よく覚悟しておくことだ。
学校行事は時として、殺人マシンに変わることもある。誰も助けてはくれない。子供本人の自覚と勇気とで、回避するしかない。
親も、真剣に、学校行事の中身を監視しておくことだ。わが子の体調その他の変化にも、注意が肝要である。

しかし、しかしである。これも運命と考えることのできる親もいるだろう。何が起こるかわからないのが人生である。
高校生の国語教科書で、すでに子供は知っているはずだろう。
「理由もわからず押し付けられたものを大人しく受け取って、理由もわからず生きて行くのが、我々生きもののさだめだ」(山月記)。
もっとも、押し付けられた結果が、若死にではたまらない。

高校教員の授業は、お粗末すぎる。研究授業のレベルに達していない。ぱるるの授業批評14

f:id:paruru236:20170216205733j:plain


 

授業批評は、高校では、難しい。どこが難しいかと言えば、授業が、そもそも批評するレベルに達していない。

 

高校では、厳密には公開研究授業はない。たまにあるのは、あれは教科ごとの授業研である。同じ教科の教員と、校長あたりが数人来て、お茶をにごす。区でも都でも、たまにやるあれは、もっとひどく、飲み友達くらいしか集まらない。。

 

授業というよりは、プリントゴッコであり、下準備の披露であり、教員の小演説である。子供は教員の下心を見抜いて、静かにしている。

それでも授業研をするのは、一部の進学校である。問題校では、そもそもする気がない。

 

教科ごとの授業だから、体育の教員は数学の授業に文句をつけることができない。批評できない。する気もない。第一、見に来ない。

気の毒なのは、校長や研究部長と称する連中で、わからないくせに何か言わなければ格好がつかない。しどろもどろでつぶやいて、他から失笑される。

 

高校では、研究授業をする教員はえらい、とされる。批判されない。「お疲れさまでした、本当に力がおありで、感激しました。参考にさせていただきます」と、おべんちゃらの嵐である。

 

一例をあげれば、と思ったが、挙げるまでもない。馬鹿馬鹿しくなった。

 

教材の解釈や展開の問題以前に、授業になっていない。

声の調子、顔つき、子供への対応の角度、板書の位置、全体の雰囲気の把握、教室の風の通り具合、光量等々に始まって、刻一刻と変わる子供の気持ちの変化や知的興奮の度合いを注視し、制御してこそ、授業と言えるのである。

無い知恵絞って、数日かけてプリントを作った。「さあ、やりましょう」では、研究授業にならないのである。

 

 

 

 

 

 

 

おしゃべりよりも、式で説明させろ。ノートの徹底と、教員の「待つ余裕」。ぱるるの授業批評13

f:id:paruru236:20170216205733j:plain

授業批評13

 乗法の交換法則の理解  3つの数値で。

教科書と同じ問題を、そのまま板書したことは、子供を集中させる方策としてはある。しかし、冗長ではある。

 

問題文から「わかっていること、わからないこと」を確認する。

問題文にある内容が、つまりはわかっていることだ。

3本ずつのたば・三たば・4人に配る。これが条件。

全部で何本必要か。これが求めるべき内容。

二つの式をひとつの式にして書く。

「ノートに書く」これが非常に重要だ。書かなければ定着しない。

 

子供から出てきた式を言う・・書いた式を・・ノートに書いたままをそのまま言う。これが大切だ。その場の思い付きで答えさせない。

 

子供の発表の後、他の子供から、すぐに「違います」とか「違う式がある」とかの発言があったけれども、もう少し余裕がほしい(少しでも間がほしい)。

 

子供「それ習つてない」。 

習ってないけどできるでしょう、と切り返せ。習ったことしかできないのなら、永遠にできない。習うときは誰でも初見だからね。

 

「式の意味は違う」・・のか??  乗法の交換法則との関係。

たとえば4×6、8×3等が出てきたら、問題文にない数が、なぜあるのかを問うといい。

式は、問題文中の条件を使って立てるものだ。

未知の数は、すべて既知の数を使って導き出す。その過程を示すのが式である。式を見るだけで、論理の流れが、他者に理解できるように。

 

子供が板書した式に対して、

指導者「先生は、ぱっと見たら、わからないな・・どうすれば、わかるかね?」 指導者が言わなくても、子供から出てきたはず。

指導者自身の説明のための時間稼ぎだったのなら、それはそれで仕方がないが、黙って待つ余裕がほしい。

 

指導者「意味に合ってない式じゃないとだめです」・・・意味不明で子供が混乱する。余計なことは言わないほうがいい。

 

数式のオーダーについて。「4:3:2」 。

「3:2:4」、8人くらいいた。オーダーが崩れている。

交換法則は、オーダーを変えても値が同じという意味。

であれば、オーダーにこだわらなくてもよいと思いがちだが、あの例では、オーダー通りにするほうが、わかりやすいし、セオリーでもある。

 

出てきた数字・・式の中の数と問題文との対応を確認したのはいい。指導者「出ていない6を説明して」・・と子供に問いかけたのも良。で、説明を聞いて、指導者「納得した」、まではいいけれど、説明は式に書かせたうえで、やらせたほうが吉。

 

指導者「4人ずつ、つまり04人分」、、、でしょうかね? 「ずつ」と「分」は違う。

 

概念の説明が優先して、実際の練習が少なくなることもあるので、教科書を中心に教えるほうが、結局は、わかりやすくなる。

2=8×3=24の間違いを、等号の意味を確認した上で、教えたのも良。

 

本時の目標に対して、子供の理解の達成度が、1時間丸々使った割には弱い。

導入部で、もっと早く教科書を使って理解させた方が、よい。

指導者の説明が多いと、聞くほうが疲れる。聞き疲れで、ぼんやりしている子供が4人いたぞ。

 

子供には、説明よりも実際の練習時間を増やして、計算する中で理解させる。行動で学ばせる。つまり実際の作業だ。

 

子供への諸注意のとき、抑えた静かな声でいうことは良。

 

かけざんでは「順序を変えても同じ」「0の扱い」等を、しっかり定着させたい。

 

作業内容が、子供全員に徹底していない場面あり。

2×3×3=6×3=18  2×3×3=2×9=18

はっきりとノートで示すことが大切。

 

教科のノートは、理路整然と、あとから誰が見ても理解できるくらいに、まとめさせること。これは、本学級すべての子供にとって可能。2か月間くらい、注意して指導すればできる。

 

 

 

授業技術と子供の成長。教員の知的向上心が、モノをいう。ぱるるの授業批評12

f:id:paruru236:20170216205733j:plain

授業批評12

 

この課題の場合、言葉の説明だけでは不足だ。ビジュアルな例示があったほうがいい。

具体的な提示物・・ただし、言葉の訓練という意味では、指導者のことばをきいて、そこから作業をすすめるという方法もあるだろう。

 

子供「意味がわからない」「マークって、わからない、思いつかない」

指導者「みんな頭をやわらかくして考えてごらん」

指導者「絵をかくとき、ものさしを使わない」。

子供「まっすぐに線をひくときは」

指導者「絵のときは直線でも、ものさしをつかわない」

 

ま、これはいろいろ考え方があるが、定規を使うと、神経質になつて、時間がかかることが多い。結果的に消しゴムを使用することが多くなる。だから、これはこれでありだが、描きなれていない子供には、どうかな。気になって先にすすめないこともある。実際に使わなくても、使ってもいいのだという気持ちを持たせると、安心するしね。

 

記号の効果が、子供に理解できているかどうか。具体的に理解させることができれば、そこから、似たようなことを考えるだろう。だから、記号についてのエピソードが必要だ。ビジュアルといったのはそういう意味だ。

マークは普遍的で言葉を超えているはずのもの、とすれば、マークの言語的な説明は不要となるはずだ。

 

文字を使いません、見るのは日本の人ばかりではないよ、、というような枠付けをしたほうが、発想は広がったかもしれない。

 

子供「学校は描けないから」

記号の代表性を理解した発言だ。あれはピックアップすべき場面だった。

 

マークを検討するなら、むしろ児童に選ばせて、挙手で決めるというやり方もある。マークは、本来は、説明不要なはずだからだ。

選んだ理由は、説明文的にノートに書かせる方法もある(段階にもよる)

 

子供「神社に階段があるから階段」「でも、ないところもあるよ」

 

指導者「じゃ、地図のマークをつくろう。かんたんな、わかりやすいもの」 だけでは、作業に入る説明としては、どうかな? 

簡単の具体例、だれにでもわかるような具体例が必要だ。

 

作業の時間の指定は、予想より多めにとっておいたほうがいい。

時間に追われて、焦るよりは、若干余裕を持っておくと、何かと吉。

 

地図マークと地図記号との違いは? 地図記号は、正式な言葉ではない?

授業に作業を取り入れるタイミングとその分量の予測をしたか?

作業を止めさせるときの、指示言の工夫がいるね。

とはいえ、指導者は落ち着いた対応だったし、全体を見る余裕があったので良。

自信を持ってゆったりと授業をすればいい。

 

授業は、今は少し早すぎるかもしれないが、考え方の一例として言えば、結局はその人の人間性、というか、トータルでの教養がものを言う。

授業技術的なものは、大切ではある。熱心にやれば、上達はする。だからといって、授業技術の上達ほどには、子供の変化は大きくはならない。技術だけでは、指導者の期待するくらいまで、子供は成長しない。

なぜなら、結局のところ、勉強(大きく言えば学問)は、本人の意思で学ぼうとしなければ、力がつかないことが多いからだ。

一定の授業技術水準を確保しても、それ以上の影響力は、担任の人間性というか、担任自身の勉強(学問)に対する接し方が、子供に大きく影響を与える。

だから、少々の失敗をしても気にせずに、指導者自身の「勉強」「学問的向上」への基本的スタンスを強く保つことだ。ぶれなければ、子供はついてくるし、結局は、子供本人に学力がついてくる。

だからといって、人間的な部分を強調して、実際の教える技術を軽視していいのではない。

言いたいのは、技術一辺倒になるな、広く学べ、ということである。

 

 

 

 

 

授業は、一種の技術でもある。成長する教員、停滞する教員。ぱるるの授業批評11

f:id:paruru236:20170216205733j:plain


 

授業批評11

 

子供の発言が活発で、全体的に生き生きしていることは良。

指導者は、いつも静かに答えるようにする。大声を出さない。

 

漢字の学習では、できた子供から前に持ってこさせたほうがいい。チェックのために、子供に手を挙げさせると、数人同時に手を挙げた場合、前の子供が終わるまで、次の子供は手を挙げたままで、腕が疲れるし、待ちくたびれる。残りの課題に進めずに、時間の無駄でもある。

チェックのために、指導者が、子供の机に出向くと、教室全体に注意が向かない可能性も出てくる。あちらの次はこちらと、指導者が振り回される。むしろ子供を来させたほうがいい。

 

机間巡視のときに、質問する子供がいた。それをどう扱うか?

その質問を、全体に広げたほうがいいときは、子供個人に回答せずに、全員で共有すること。そのやり方は、いろいろあるが、本授業では、あの展開になってしまったのは、授業構成に原因がある。

 

空書きをさせるときは、全員にさせること。していない子供が4人いた。見逃してはならない。

 

ノートするときの姿勢が悪い子供が3名。注意すること。

 

指導者の説明中に、いくつか私語があった。望ましくはないが、ある程度の許容も必要なので、どこまで許すかが難しい。

説明や指示を聞くとき、作業するとき、発言するとき、などの切り替えを、子供が自然にできるようになるまで指導しておくこと。

 

指導者が、適切な言葉で注意せずに、声の大きさで威圧するという方法。最低だ。決して、やってはならない。

子供を自分に集中させようとしたら、むしろ小声にする、ゆっくり話す。

 

すでに習ったかどうか、という点に、拘泥する子供が多い。

習っていなければ今習えばいいだけのことだ。一部の子供を、お調子に乗らせないこと。

 

全体的にテンポは良いが、少しせわしない感じもする。授業進行がいらいらと先走りすると、落ち着いて考えることの訓練にならない。目先の作業を終わらせることの連続となりがちだ。実質がないにも関わらず、何かを学んだような気持ちだけで、満足してしまうかもしれない。

 

一般的に、学級の人数が少ない場合、指導者が(子供も)、少なさに甘えてしまう。

 

指導者、「漢字の変身ですよ」。 漢字は変わらない。あの例では、送り仮名が変わるだけだ。発間の明確化を、常に心すること。

 

「泳ぐ」の語尾変化の指導は盛り上がった。あの調子だ。

「泳ぐ」の前に、歌う走る動く等で、変化形を、一度、おさえておく方法もある。

 

指導者は、黒板前での動きを少なくすること。落ち着け。

 

子供のお茶らけ(「大入」と発言した子供)には、あえて指摘して、内面に訴える。子供の受け狙いの「意図的な」ものは、望ましくない。やんわりと、しかし、当の子供には、ずしりと、わからせることだ。

 

形容詞・形容動詞の活用に関しては、説明が必要。やらせてみて、子供が理解できないのを見て、途中で追加の説明をしないほうがいい。似たような例であらかじめ練習させて、作業に入らせるほうがいい。

 

おくり仮名の変化で状況が変わる。それを理解させるのであれば、発展的に(定着させるために)多くの問題に当たらせることが必要だった。

 

言葉の学習は、学習内容が明確化しやすく、ゲーム化がしやすいので、子供が興味をもって取り組むことができる。いわば、楽勝の授業だ。

それだけに、一定以上の効果をあげて当然な授業だ。安心せず、いっそうの工夫をしていこうこと。